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2004年11月1日
執筆 深川雅文
本論は、2004年10月、ドイツ写真協会が授与する文化賞が日本の写真家、森山大道氏に与えられた式典(11月1日開催)で、記念講演を行った際に発表した講演原稿である。
キーワード: 森山大道 「世界は美しい」 レンガー=パッチュ 等価 アレ、ブレ、ボケ 『にっぽん劇場写真帖』
「世界は美しいか?」
1. 「世界は美しい」―この言葉は、おそらく写真を愛する皆さん、そして写真の歴史をご存知の方、とりわけ、ドイツの皆さんにとって、大変、感慨深いものかもしれません。というのは、トーマス・マンが「ベルリン画報」に紹介の文章を書いたあの本、つまりアルベルト・レンガー=パッチュの歴史的名作「Die Welt ist schoen」を思い出されるかもしれないからです。さて、この言葉を疑問形にしてみましょう。「世界は美しいか?」この問いに対して、栄えある文化賞を受賞した森山大道は、こう答えるかもしれません。「世界は、ぜんぜん美しくない」、と。この言葉は、しかし、額面通りではなく、森山が、写真史上に現れる真に革新的な写真家たちと同様に、写真表現の新たな可能性を真摯に追求する過程において口に出てきた言葉として理解されなければなりません。その背景には、森山が、写真との格闘の末に到達した比類無き写真美学があります。まず、その背景からお話しすることにしましょう。 ときは1960年代半ばから70年代初頭、日本は高度経済成長のまっただ中にあり、政治的には日米安保条約を巡って、政治・社会の変革を求める学生運動の高まりなどが渦巻く「熱い」季節を迎えていました。それに呼応するかのように、写真表現の変革を追求する新世代の写真家たちが姿を現します。その中心にいた写真家のひとりが森山大道でした。写真雑誌などで注目を集め始めた森山の写真は、当時、衝撃をもって受け止められ、写真界で賛否入り乱れての物議を醸すことになりました。というのは、荒れた粒子が踊るような画質、被写体を固定しないブレた画面、そしてぼやけたピントなど、森山の写真を特徴づける要素は、描写の明確さ、構図の巧みさなどを大切にしてきた旧来の写真美学と既成の写真概念を打ち砕く危険な存在であったからです。その荒々しい画像の特徴を指すものとして「アレ、ブレ、ボケ」と言う言葉が写真界で流行したほどでした。当時、自分の写真に対して示された数々の疑念や批判に対し、森山はたとえば次のように応えたのでした。
「ぼくはいつも素朴な疑問を持っている。なぜ写真はピントが合っていなければならないのか、なぜ調子がこんなにまできれいでなければいけないのか、と。ぼくが現実に生活してものを見ている場合に、透明で、静的で、ものがみなきちっとおさまっているようにはとても見えない。…中略…つまり、ぼくもふくめて世界はぜんぜん美しくないから、ぼくの写真もそうなる。」(『フォトアート』1969年7月号152ページ)
この森山の言葉は、写真の歴史に対して挑発的な発言に聞こえるかもしれません。たとえば、20世紀の輝かしい写真美学のひとつに、レンズの分析的な力を徹底することで、現実の世界で肉眼では見ることのできない被写体の美を発見し、明らかにすることができるという信念がありました。先ほど触れた、アルベルト・レンガー=パッチュの著名な写真集『世界は美しい』(1929年)は、その記念碑的な作品でした(ちなみに、この写真家は、戦前より日本の写真界にも大きな影響を与えました)。同時代のアメリカの写真の巨匠、ポール・ストランド、エドワード・ウエストン、アンセル・アダムスの写真にも、それぞれの独自性を発揮しながらも同様の写真美学が根底に貫かれています。森山の写真は、ある意味で、こうした写真史の巨人たちが打ち立てたモダニズムの写真美学に挑戦し、それを超える新たな写真表現の可能性を示した点で、戦後日本の写真界においてのみでなく、大局的に見ると、世界の写真史においても真の意味での革新のひとつだったのです。
森山大道の登場は、1960年代後半の日本の写真界を震撼させる大事件でした。伝統的な写真美学を擁護する側からは「これは写真ではない」と酷評される一方で、森山の写真表現に新たな写真美学の可能性を見出し、支持し、追随する批評家や写真家、そして読者たちも現れました。後者の人々は、森山の写真に写真表現の新たな可能性と美学を感じていたのです。 ところで、森山を巡る議論のなかで、キーワードとなった言葉に「等価」という言葉があります。たとえば、森山は、自らの作品についてこう語っています。
「ぼくにとっては、現実もポスターもテレビの画像も、外界の物として存在しているわけで、等価なものです。だから女性でも、生の女性よりポスターの女のほうがセクシーだと思ったら、ポスターを撮るんです。」(『アサヒカメラ』 1972年4月号147ページ)
ここで、私は、この引用のみでなく森山による自らの写真についての陳述のなかで幾度も現れてくる「等価」という言葉を軸に、森山が切りひらいた写真美学の新次元について、いくつかの作品をお見せしながら、お話したいと思います。
2. 最初にご紹介するのは、1969年にあるカメラ雑誌に連載された「アクシデント」のシリーズです(図2)。これは、森山の写真のラディカルな破壊力を印象づけた作品でした。彼の考える「等価」の意味を理解する上でも重要です。その第一回目「ある七日間の映像」は、6点の写真からなります。その内5点はさまざまなメディア(テレビ、電送写真、新聞)に載せられた映像を複写した写真でした…ジョンソン大統領の北爆停止のテレビ放映画像、大統領選に勝利したニクソンの電送写真、暗殺されたR・ケネディの新聞画像、虐殺されたベトコン兵士の電送写真画像などです。実際に現実の場面を撮った写真は一点だけでした。つまり、すでに誰かが撮った映像を複写した写真がほとんどでだったのです。この作品は、写真家の主体性はどこにあるのかという批判を引き起こすことになりました。また、別の回の「事故-警視庁・交通安全ポスターより」では自動車同士が激しく激突した直後の惨状の画像が掲載されています。ただし、それはタイトルが示しているように森山自身がその現実を撮ったのではなく、交通安全ポスターの画像を複写して用いたものでした。この回は全7ページが、一点の全体画像とその部分的なカットのみで、森山独自の荒々しい画像で構成されていました。ここには、「画像の画像」も「現実の画像」も「等価」であるという森山の視点が強烈に示されていました。 森山にとって、カメラとは何だったのでしょう?彼によれば、カメラは「現実の複写機」であり、「等価値的な光学機器」とされました。カメラを現実の事態を眼で見たままに記録する装置としてではなく、現実の複写機と捉えれば、その点において、写されるものが現実の事態であるか別の画像であるかは本質的な区別ではなく「等価」なのです。「等価」の立場からは、他人が撮影ないし制作した画像も、等しく被写体となります。既存のイメージを機械的に複写して自らの作品に取り込む点で、森山の手法は、写真家はなんらかの現実を元に自らのビジョンを表出するという伝統的な文法から逸脱していました。 森山の記念碑的な写真集『にっぽん劇場写真帖』は、作家の「等価」の美学の結晶体と言うことができるかもしれません。1967年(昭和42年)、森山は、同年度の日本写真批評家協会新人賞を受賞します。受賞対象となったのはカメラ雑誌に発表した「にっぽん劇場」などの芸人、芸能人を撮影した連載でした。翌年、室町書房より最初の写真集『にっぽん劇場写真帖』が出版されます。この著作は、書名からすると前年の「芸人、芸能人」をテーマにした仕事をまとめたもののように思われますが、内容的には、そうした仕事も含めて、1960年代半ばに作品を発表をし始めて以降1968年までに森山が手がけたさまざまな写真をシャッフルし、断片化し渾然一体とした形で集成したものでした。この出版は、自分の作品を本来の形で世に問いたいという作家の決意の現れでした。というのは、前出の新人賞の受賞理由に、日本人の土俗性や民俗性という「テーマ」を表現しているという評価があったのですが、それに森山は反発したからです。森山は、写真における伝統的な意味での「テーマ」を完全に否定し、「テーマ」すらも「等価」であるということをこの写真集で明らかにしました。『にっぽん劇場写真帖』には、最初に発表したときにはテーマ的なタイトル(たとえば、「ヨコスカ」、「芸人」、「バトントワラー」、「パントマイム」など)を添えて出された写真が、元々の脈絡から切り離された形で纏められています。これは、写真をあるテーマのイラストレーションにしてしまうことから逃れ、それを超えたところに開かれるメタレベルの写真表現の地平を切り拓こうとする作家の意志の反映でした。つまり、森山にとっては、テーマ自身が無差別的であり等価なのでした。これは、テーマ性を拠り所にした伝統的な写真概念への挑戦状でした。
3. 森山の革新性を、日本での写真の歴史的な展開から、さらに見てみましょう。 今、述べたように「等価」の立場から、ひとつには、写真における被写体の一般的な重要性がキャンセルされ、さらに、作品におけるテーマも「主題」としてはさしたる意味のないものとして退けられます。これは、森山の活動に先立つ日本の戦後写真を代表する重要な二つの潮流のいずれにも「否」を突き付けたことになりました。 ひとつは、戦前に海外宣伝の雑誌『NIPPON』などで活躍した日本写真史の巨匠のひとり、土門拳を中心人物にした「写真リアリズム運動」と呼ばれた潮流で、戦後、1950年代の日本の写真界を席巻しました。もうひとつは、1920年代末にドイツに留学し、「ミュンヒナー・プレッセ」や「ベルリン画報」などで写真家として活動し、日本に近代的なフォトジャーナリズムを導入した名取洋之助によって提言された「組写真」の方法論です(ちなみに、50年代には、オットー・シュタイナートの「主観的写真」運動も日本で紹介され、少なからぬ賛同者を見出していましたが大きなうねりにはなりませんでした)。土門は、写真にとって第一に重要なのは「対象のモチーフに対する客観的な真実だけ」であるとして、美学的・創作的な写真を批判し、あらゆる作為を否定して、対象の重要性とそれに向かう写真家の倫理的な真摯さを力説しました。結果として、被写体のもつ社会的な意味が重要視され、戦後の社会や生活の状況を端的に示すような被写体や場面が多くのアマチュアによって撮られるようになりました。かたや、名取洋之助は、フォトジャーナリズムでの経験を元に、写真を文中の語にたとえ、それを組み合わることによって文章と同じように物語ることができるとして「組写真」という概念を広めました。名取は「組み写真は写真で書く文章ともいえるものです」と説きました。この考えでは、組み写真で用いられる個々の写真は一種の記号となり、全体の主題や物語に従属させられ、そのイラストレーションの役割を担わされることになります。ところで、この二つの潮流は、一方では、その客体たる被写体に意味の重点がおかれ、他方では主体による写真の選択と文脈の構成に力点が置かれていたので、当時の論争のなかでは一見対立するように見えました。しかし、写真と被写体の関係において、被写体の意味をあらかじめ了解可能なものとして前提とした単純な二元論的認識(主観⇔客観)の枠組みの中で写真を考えていた点では両者とも、同じ土俵にありました。森山の写真は、こうした当時の伝統的な写真概念の構造そのものに疑念を投げつけ、近代写真の哲学的枠組みを乗り越える方向性を指し示たのです。 森山は、1968年に、同人誌『PROVOKE』(1968年創刊 同人 高梨豊、中平卓馬、多木浩二、岡田隆彦)のメンバーに加わります(第2号から参加)。これは近代写真の超克を旗印に掲げたラディカルな雑誌で、森山が参加したのは自然な流れでした。『PROVOKE』の創設メンバーのひとり多木浩二は、「まなざしの厚みへ」(『アサヒカメラ』1972年2月号)という論文で、主体/客体という二元論を超えたところから開かれる写真表現について次のように書いています。「まず〈主体〉はその写真の(文章になぞらえていえば)〈文体〉としてあらわれる。〈表現〉は主体の目のまえで主体の意識によって構成されるのではなく、表現のなかに〈主体〉が構成されるのである。」さらに続けてこの「文体」という言葉を写真にふさわしい表現として「まなざし」という言葉で用いることを提案している。対象にもテーマにも依存しない森山の写真は、多木がいうところの「文体」としての「まなざし」の地平を写真に切り開いたのです。
4. 「等価」という思想とともに、森山の写真芸術でもうひとつ重要な点は、写真を生と一致するものとして捉えたことです。既に述べたように、森山は、写真をその被写体から「意味」づけることも、テーマなどの概念から「意味」づけることも拒否しました。その姿勢は、撮影の際に彼が多用するノーファインダーという撮影方法にも貫かれています。これはファインダーによって世界を選びとる際に忍び込む意識的な「意味」づけを排除するためでした。「最初からイメージづくりをするということは、観念的な言葉でものをつくり出してしまう。…」(森山) ここで、ひとつの大きな疑問が生じてくるかもしれません。もし写真に外在するものからの意味付けを拒絶するとしたら、その写真の依って立つ基盤はどこにあるのだろうか、という問いです。森山はあるインタビューでこう語っています。「(ぼくは) 観念的にそのような操作をするというより非常に肉体的に反応する。…(中略)…たとえば右を向いてポスターを撮る、かえすカメラで路上を撮る。ときには自分自身にカメラを向けたりする。しかしそのことが区別なく行われても、ぼくのなかではまったく矛盾しない。」ここには、すでにあらかじめ言葉や文化によって意味付けられた事物や現象で満たされた世界をカメラで選び撮るのではなく、分節化された世界に先立つ、さしあたっては等価に立ち現れる未踏の物象の世界を、自らの肉体的・身体的反応とともにつき動かされるカメラによって切り分けていく写真家の姿が浮かび上がってこないでしょうか?ここでの写真家の肉体は、むろんたんなるフィジカルな身体ではなく、広い意味での「生」を営む肉体のことです。森山自身の生を生きる身体によって支えられた、等価性の写真行為として彼の作品は存在するのです。さらに言えば、等価性の写真行為を支えているのは、身体をもって生きる人間としての「生」なのでした。その意味で、森山の写真は、彼の「生」と表裏一体の関係にあったのです。森山はこう語っています。「ぼくと写真はピッタリ一致する」(森山 同インタビューにて) 「写真と生の一致」といっても、森山の場合、そのイメージがなにか主観的な世界に閉ざされてしまう性格のものではけしてありません。彼の写真の方法は、自らの身体を賭しながらも、それによって「写真」というメディアそのもののあり方を問いかけ、二元論的な素朴なリアリズムを超えた写真家/写真/世界との関係の新たなかたちを探求していたからです。『にっぽん劇場写真帖』について森山はこのインタビューでこう述べています。「…そのなかにはエロティックなもの、スタティックなものなどさまざまあり、これらを羅列することによって、世界なら世界、人間なら人間の総体をよりリアリスティックに表現出来ると思い出版した。」(同上) 等価的な写真手法の徹底には、二元論的な近代の枠組みによって疎外され分断された世界と人間の関係を、身体と写真を介することによって、総体として回復し直すという狙いがあったことをこの発言は示しています。
5. 森山がその中核にいた写真表現の革新を巡る疾風怒濤の動きは、70年を境にさらに勢いを増していく気配を見せていましたが、森山は、その途上で、ひとつの挫折を味わいます。1972年4月、森山は『写真よさようなら』(写真評論社)を出版します。これは『にっぽん劇場写真帖』と双璧をなす森山の写真集ですが、これを境に、森山は大きなスランプに陥りました。 『にっぽん劇場写真帖』(そして『PROVOKE』)が出版された1968年から四年の歳月の短期間に、日本は大きな社会変動を体験しました…日米安保条約を主軸にした一連の政治的問題に対する学生運動の全国的な広がり、当局による徹底的な弾圧による学生運動の挫折、赤軍派に見られる学生運動の過激化…。それが、1970年になると、安保条約の自動延長され、70年代初頭には一挙に政治的熱気が退潮する時期を迎えます。さらに、経済的成功を世界に誇示する大阪万博の開催そして三島由紀夫の割腹自殺など、時代の雰囲気は確実に変わっていきました。こうした社会的激動を体験しながら、森山は写真雑誌・週刊誌での作品発表、展覧会そしてテレビ出演など目まぐるしいほどの活躍を続け、代表的な作品を数多く生み出しました。 森山の写真表現のラディカリズムは、変革へのうねりを見せていた60年代末の時代精神と深くシンクロしていました。それだからこそ、70年を境とする日本社会の変容は、森山の写真にも少なからぬ影を落とさざるをえなかったように思われます。1972年に出された『写真よさようなら』はその変化を明白に示しています。同書の巻末に収められている、無二の親友で敬愛する写真家、中平卓馬との対談のなかで、森山は、中平の「何をやっても現実を捉まえられないといった焦燥感をもつ」という発言に同調して「…あげくのはてに何かシラシラとシラケてしまっているような気がする」と述べ、心境の変化を吐露しています。この作品にはたしかに森山の仕事の質的変化の徴候を示していました。たしかに、カメラを複写機として現実に等価に接していくという点ではそれまでの作品の延長線上にあります、全体をとおしてイメージの不鮮明さのボルテージが高められ、強烈な無化の傾向を示しています。白の平面に限りなく近づき、物影すらも消え去ってしまった作品はその最たるものです。森山は、この対談のなかで「自分としてはたとえ矛盾があろうと、コッケイに見えようと、そういった無化の方向をたどらざるを得ないという気がする」と述べています。「等価」が一線を越えて「無化」へと転じることで、森山の作品に大きな変化が生じることになりました。そうした作品に対して、それまで森山を評価してきた批評家たちも、手のひらを返したように容赦ない批判を加えます。その後、70代中盤から後半にかけて、森山にとって苦悩の時代が続きました。 81年、長い沈黙の後、森山は創刊したばかりの雑誌『写真時代』(白夜書房)に新作「光と影」を発表し始め復活の狼煙を上げます。それから今日にいたるまでの20余年の間、森山が刻んだ復活の軌跡と輝かしい業績については、残念ながらもうお話する時間がありません。森山は、今も国内外で活発に展覧会を開催し、新作の写真集を何冊も出版するなどして常に現代の写真の最前線で現役として活動を続けています。すでに歴史に名を刻んだ大写真家でありながら、現代日本の最も動きのある作家のひとりであり、若い世代にも絶大の人気を博し、霊感を与え続けています。この素晴らしい写真文化賞は、森山の歴史的な重要性はもとより、今申し上げたような現代の作家としての活動に対しても、授与されるものと私は理解しています。
最後に、ある文章を引用して私の話をお開きにしたいと思います。ロシア革命直後の高揚した文化状況の下に登場したロシア・フォルマリズムの文芸批評家、ヴィクトール・シクロフスキーの言葉です。言語芸術についての文章ではありますが、その洞察は、森山が切り開いた、写真というメディアの表現力の回復のための道を照らし出すと思われるからです。シクロフスキーは、もともと豊かであった言葉がいかなるイメージも惹起しなくなったという危機認識に立ち、言語というメディアを回復しようとする理論のなかで次のように記しています。
「生の感覚を取りもどし、石を石らしくせんがためにこそ、芸術と呼ばれているものが存在しているのである。芸術の目的は、再認=それと認めることのレベルではなく、直視=見ることのレベルで事物を感じとらせることである。そして、芸術の手法とは、事物を〈異化〉する手法であり、形式を難解にして知覚をより困難にし、より長引かせる手法なのである。」 (ヴィクトル・シコロフスキー 『手法としての芸術』 1926年 所収『ロシア・フォルマリズム文学論集』〔せりか書房〕)
(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)
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