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lecture「写真ゲームの地平へ」(in Japanese)

English here


2006年11月18日


執筆  深川雅文


本テクストは、ロンドンのTate Modernで、2006年11月18日に開催された写真を巡る国際シンポジウム「Global Photography Now: East Asia」で、現代写真の動向について発表した講演内容である。講演の模様は、Tate Modernの下記のURLにて現在も配信されている。


http://www.tate.org.uk/context-comment/video/global-photography-now-east-asia

Language:English.

(深川は最初のスピーカーとして登場します。Flash Playerのインストールが必要です。)



「写真ゲームの地平へ」  


日本の現代写真は、20世紀末から21世紀初頭にかけて、激変の時期にあると言えるかもしれません。その様相を、ここでは、何人かの現代の写真家たちの作品をご覧いただきながら、二つの側面から紹介したいと思います。そのひとつは、風景をテーマにした写真に見られる「場の意味の変容」であり、もうひとつは「写真のゲーム化」という現象です。


1 岡田紅陽と野口里佳   


その変容を象徴的に表す事例を挙げましょう。富士山をテーマにした伝統的な風景写真家、岡田紅陽(1895-1972)と、最近、ロンドンでも個展が開催されるなど国際的に活躍している野口理佳の作品を比べてみましょう。

日本の最高峰、富士山のイメージは、世界のひとびとにも、たとえば、広重や北斎の浮世絵などを通して、あるいは観光写真や絵はがきなどで日本の象徴的イメージとして知られてきました。この山は、古来より、日本人の精神の古里、自然美の象徴として敬われ、親しまれ、各時代の芸術家たちは、詩歌や文学そして画に、この山を主題に多くの傑作を残してきました。写真も例外ではありません。なかでも、岡田紅陽は、まさに「富士」写真の最高峰です。彼は、1920年代から戦後の長きにわたり、季節や時間帯により刻々と変貌するその多様な姿を撮り続けました。岡田の富士風景は、たんなる富士という山岳の写真を越えた意味をもっていました。知日派の駐日米国大使として知られるライシャワーは、岡田の写真についてこう書いています。

「富士は日本の自然の美しさすべての象徴であり、ある意味では日本的性格そのものの象徴でもあります。富士が古来日本の画家にとって中心の主題であったのも不思議ではありません。富士のあらゆるムードを描くことは、つまり日本の本質を描くことなのです。…」

岡田の写真には、日本の自然から生まれる美的本質を象徴的に指し示すものであり、日本における伝統的な風景写真の典型を見ることができます。

ところで、現代の創造的な写真家にとって、富士山というテーマはどのように現れるのでしょうか? 野口理佳が「フジヤマ」と題して1997年に発表した作品を見てみましょう。たとえ、同じ山の名が作品につけられたにしても、その作品は質的に大きく異なっています。その題名が、漢字ではなくカナで書かれているのも、その差異を暗示しています。野口の「フジヤマ」には、富士を登山する人の姿が点景として配置された風景が見られます。しかし、その作品集には、あの、ゆるやか末広がりに伸びる稜線の美を誇る富士山の全景はいっさい見られません。見られるのは断片のみです。大切なのは、フジヤマの地表を歩きながら彼女が撮影を通して体験した光景であって、岡田の写真にとって重要だった「日本の本質を描くこと」などには関係していません。

野口のフジヤマでは、「歴史的場所」、「精神的場所」といった場所の概念は希薄であり、重みを失っています。自らの体験の場としてしかその山は存在しないのです。ここには、写真家と写される「場所」の関係を巡る大きな断絶が見られます。この二つの風景作品の間には半世紀以上の隔たりがありますが、近代のただ中を生きた日本人と近代を後にした時代を生きる日本人の精神的な断層、あるいは日本の文化の変容の一側面をかいま見ることができるかもしれません。こうした変容の背景には、どんなことがあったのでしょうか?


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2.1 変動する世界 「歴史」の混沌化   

90年代の風景写真の状況を国際的な視野で振り返ると、「場所」を意味づけてきた歴史的な意味の消滅あるいは相対化に伴う、「場」の意味の変質という事態が見えてきます。その背景には、大きな社会的変化がありました。1989年のベルリンの壁の崩壊に続き、90年代、ソビエト連邦の消滅など近代的な歴史の概念は音をたてて崩れ去り、長い間、有効とされてきた歴史概念の混沌の中に沈み、流動的で不安定な社会情勢が世界的に生まれました。それと相前後して、コンピュータや携帯の普及によるデジタル・ネットワークが急激に進行しました。瞬時に、ネット上で世界じゅうのあらゆる場所ど繋がることができ、あらゆる知識と情報を瞬時に共有できる環境が生まれることによって、私たちの空間・時間の感覚は大きく揺さぶられました。こうした出来事も、歴史性の概念に変容を迫り、その相対化に拍車をかけたと思われます。結果として、写真で撮られる「場所」に結びついていた歴史的意味も霧散しはじめ、風景写真は質的な変化を被らざるを得なくなりました。

こうした事態を象徴的に示したできごとのひとつに、風景写真の革新の旗手、ルイス・ボルツの変貌があります。70年代半ばから都市開発の現場や刑務所跡地などの廃墟的風景で国際的な名声を博したボルツは、1992年、ポンビドーセンターで問題作「夜警」を発表します。この作品は、ボルツが、自らが長年踏査してきた現実の風景の領域に別れを告げ、ハイテクの画像イメージの世界へと身を転じた作品でした。彼は、1992年に自らの個展のカタログのテクストで次のような言葉を漏らしています。

「…80年代の私の仕事は、黙示論的な含蓄を持っていた。1990年になると、世界はある意味で終わってしまったように思われた。…」(ルイス・ボルツ)

ボルツのこの言葉と転身は、写真における「風景」という主題のひとつの時代の終わりを感じさせるものでした。他方で、こうした状況の広がりとともに、風景写真に新たな「場所」の概念が現れてきます。日本では、90年代後半から、風景写真の新たな展開が姿を見せ始めました。



2.2. 変容する日本 新たな風景写真 / サイト・グラフィックス


日本の状況について見てみましょう。わが国でも、90年代は大規模なな社会変動と流動化の時期でした。1991年にバブル経済が破綻し経済的危機が始まります。なかでも、1995年は、象徴的な年でした。この年、不安な社会をさらに震撼させる大事件が二つも起こりました。阪神淡路大震災とカルト集団、オウム真理教による地下鉄サリン事件です。前者はわが国の都市文明の繁栄がいかに脆弱なものであるのか、そして、後者は、繁栄の裏舞台で醸成されてきた精神社会の闇と歪みを明るみに出しました。

さらに、日本では、ウィンドウズ95の発表もあった1995年を境に、インターネットを始めとするデジタル・テクノロジーの社会的浸透が急速に広まっていきます。また、この年、日本では、手軽にメモ代わりに使えるデジタルカメラCASIO QV10が発売され本格的なデジカメ時代が始まります。90年代後半は、こうした事象が、複雑に絡み合いながら、私たちの社会・生活環境の地殻変動が進んでいきました。90年代後半から21世紀にかけて、日本の現代写真の風景表現において静かに、しかし確実に進行していった新たな「場所」概念を巡る変化は、こうした時代状況とも深く関わっていたように思われます。 姿を現してきた、新たな「場所」の概念について考えてみましょう。

フランスの哲学者、ジャン・ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』(1981)でこう述べています。

「…もはや、黙示録は存在しない。黙示録は終わったのだ。今あるのはどっちつかずのものの優勢であり、中性的で無差別的な形式の優勢である。…」

この言葉をなぞって言えば、歴史的な意味をはぎ取られた場所とは、「中性的で無差別的な」場とさしあたって仮定できるのかもしれません。 90年代後半、こうした新たな「場所」概念に関わっているように見える写真家が現れてきました。そのような写真に対して、私は、手垢の付いた「風景写真」ではなく「中性的な場所」という意味で「サイト」という言葉を用い、「サイト・グラフィックス」という言葉を当てはめてみようと思いました。というのは、それによって、風景表現の新たな質をより明確にできるかもしれないからです。ただし、この造語は、状況を理解する手助けになるかもしれない「補助線」的、「試験的」なものにすぎませんが。  

「サイト・グラフィックス」は、言い換えれば、歴史的ビジョンの混沌状況(それを「脱・歴史」と形容できるか否かは議論の分かれるところですが)において立ち現れてきた特徴的な“風景”と言うことができるかもしれません。別の言い方をすれば、場の、脱歴史化、無差別性、中性性に直面しつつ、自らの関心によって‘任意に’選び取られた“場面”としての相対的な風景のビジョンなのです。ただし、自らの関心の強度によっては、その風景は、絶対的風景へと相貌を変える可能性も有しています(野口理佳の風景写真にように)。とはいえ、その絶対性は、その場の意味の強度から招来されるものではもはやありません。ここで、私たちは、あらためて冒頭に紹介した岡田紅陽の「富士山」と野口理佳の「フジヤマ」との質的な違いの内容を考えることができるかもしれません。かたや、歴史的象徴としての富士山の美的表象の創出、かたや、作家のビジョンを投影するためのサンプリングの対象としてのフジヤマ、と。


2.3. サイトグフィックスの状況


野口のほかに、私に「サイトグラフィックス」という言葉を連想させた作家の何人かを紹介しましょう。

横澤 展は、写真における「場」の今日的なあり方を明確に示している作家のひとりです。「spilt milk」(2001)と題された縦長の大きめの作品には、広がる暗闇の中に、天空の星座その作品のように街の灯りが点在しています。それは、トーマス・ルフの巨大な星座を捉えた作品へと連想を走らせるかもしれませんが、ルフの星座の写真は、現実の特定の場に向けた天体写真を用いた作品であるのに対し、横澤の作品で我々が見るのは、眼前の光景(都市の眺望)から、作家自身が選択した描出のシステムによって掬い取ることで仮構された光景です。その撮影が向かった場所自体は暗闇のブラックホールの中に回収されてしまっています。カメラの前にあるという意味での「場」は、より高次の作家の視覚システムのフィルターを介して別のイメージへと変換され、融解され、名指すとしたらまったく別種の名で(例えば「spilt milk」)しか呼べない場へと転化しています。横澤はこれと対になる作品として、2004年、雪に覆われた都市を俯瞰した作品「on white」を発表しました。ここでは、「spilt milk」で浮かび上がった暗闇の世界が、にわかに白日化され、暗転ならぬ明転したような印象を与えます。「黒」と「白」の二極にある作品であるが、作家が貫こうとしているイメージの転換方法は通底しています。大切なのはその転換によって生まれるイメージです。ですから、作品のタイトルには、その場がどこであるかという情報は必要ありません。  

片山博文の作品「Vectorscape」(2002)は、一瞥したところレンズの冷徹な分析力をフルに引き出して撮影した緻密な建造物写真のように見えます。文字通りゴミひとつないノイズレスで即物的な画像は、写真的なリアリティを極度に純化した感じがあるので、逆にかすかな異和感を見るまなざしに生じさせます。見るひとは、そうした質感に、うっすらと「デジタル」的な操作の感触を感じるかもしれません。この作品は、厳密に言うと、カメラが生み出したものではありません。片山は、自ら 大型カメラで撮影した風景写真を元にコンピュータでそのイメージをシミュレートしています。ただし、たんにその画像をスキャナーを通してデジタル画像化するのではなく、元の画像全体をイラストレーターによるヴェクトルデータで再構成した画像なのです。彼が撮影に選んだ「場所」は、ヴェクトルデータ化される素材としてのサンプリングの場であり、存在論的にはデータ化することによって到達されるイメージの下位に位置づけられるにすぎません。片山が撮影するのは、都市の一角のどこにでもあるような場所です。どこにでもあるような場が、どこにでもない場へ転化させられています。「場」をある視覚のメタ・システムによって「転化」するという点において、技法の違いを超えて、横澤の作品にも通じる部分があります。写真モダニズムの古典的な即物美学を一見シミュレートしながらも、質的な転換をもたらして古典的美学を欺き、むしろその美学そのものを相対化しています。  


津田直は、2001年より「近づく」のシリーズを発表してきました。それは、一見したところ、山や湖、空などある意味で自然な風景の作品ですが、特定の場所の風景のありかたについてなにかを示しているというよりは、その風景と写真家の身体的、空間的体験の内実に力点がおかれ、その関わり方を見る者に投げかけ、シミュレートさせるような調子を帯びています。先に紹介した野口里佳の「フジヤマ」とも通じる作品です。ここでも、作家は、発表において場所の地名を明示することはけしてありません(実際には有名な山や場所であったにしても)。場の象徴的な意味を排し、あくまでも自分にとっての「場」の体感的なイメージを提示することに徹しています。そのために、津田は、山間で体験される霧や雲などの精妙な現象をプリントに活かすために細心の作業を行い、また、展示においては現象の微妙な変化を体感させるための配置のチューニングを極限まで突き詰めています。結果として、現実の場所に霊感を受けながらも、その場の一般的な意味とは異なる次元の、作家個人が掬いだした世界体験のビジョンが見るものを支配するのです。



3. 写真の遊戯化  

これまで、風景写真を中心に、日本の現代写真の変容について話してきましたが、もうひとつ、90年代の世紀末に、同時代的に進行していった写真の動きについてお話ししましょう。それは、「写真のゲーム化」、あるいは「写真の遊戯化」というべき状況です。まずは、作家と作品を紹介しましょう。


3.1 自身のイメージを巡るゲーム  


屋代敏博の「回転プレイ」

屋代敏博は、もともと、日本の銭湯の空間を大型カメラでタイポロジー的な厳密さで撮影し、収集してきた写真家でした。それが、2001年より、突然、タイツを身にまとって自らが被写体になるシリーズを始めました。手製の回転台を建物や公園などの公共空間に持ち込み、その台で回転している自らの姿を入れた光景を写真で撮影した作品です。名付けて「回転回」。自らの像は、回転の軌跡となり、かすれた円盤のような形でイメージ化されています。異質な動きの痕跡あるいは光跡が、それが設置された空間や風景を異化する作用を引き起こしています。作家は、近年、このコンセプトを、さらに参加型にして、自分ではなく希望者を回転させて撮影するイベントとしてさまざまな場所で展開しています。彼は、こう言っています。「…それまで撮影には、「こちら側」と「あちら側」、つまり「主体」と「客体」いう考え方が常に存在していたのですが、その境界も溶けてしまったんです。…」 作家と参加者を巻き込んだイベントの様子は、写真や映像によって記録され、プロジェクトの記録として発表されます。回転回では、作家は、プロジェクトのプランナーでありデザイナーの位置にあります。なおかつ、そこに自ら入り込むパフォーマーであり、あるときは、撮影者にもなり、他者を巻き込むオーガナイザーにもなります。そういう写真のゲームであり、そのゲームのプロセスそのものが作品となっています。


澤田知子の「変身プレイ」

こうした遊戯的な写真が広く認められることになった重要なできごとが2003年にありました。日本の重要な写真賞、木村伊兵衛写真賞の受賞者として、澤田知子が選ばれたのです。代表作のひとつ「Costume」は、作家自身が被写体となり、旅館の女将、スーパーの売り子、婦人警官、尼僧、クラブのホステス、受付嬢などなどさまざまな市井の女性に変身して撮影した作品です。日本の風俗現象となったコギャルに化けた作品「cover」、あるいは、さまざまな女性の姿に化けて写真館で撮影された「OMIAI♡」のシリース゛などもあります。自分が他者に変身して撮るという手法は、すでに、シンディ・シャーマン、森村泰昌などがありますが、銀幕のスターなどのイメージ上の他者に変身するのではなく、手の届く範囲の日常的な女性のあり方への変身であり、いかに変貌を見せようとも、あくまでも作家自身の存在に即したイメージの変容であるという点で独自性があります。 賞の選考過程で、澤田知子の選定には抵抗もありました。そのひとつの理由は、澤田は「写真家」として撮影してはいないというものです。澤田の作品は、一種のコスチューム・プレイの記録のようにも見えます。こうした遊戯的な写真に、そのような賞を与えていいのかという批判です。しかし、最終的にはそのような意見を抑えて、受賞が決定したのでした。これは、画期的な判断でした。というのは、かつて1993年度の選考会で、変身セルフポートレート作品の先駆者である現代美術のアーティスト、森村泰昌が最終選考に残ったときには、反対意見が強く、伝統的なスナップショットの作家に賞が与えられたからです。10年を経て、日本における写真作品の価値基準が変わったことを物語っています。


3.2 写真ゲームの広がり   


澤田の作品も屋代の作品も、いわば写真を用いたゲーム的表現と言うことができるかもしれません。写真ゲームなのです。こうした作品においては、撮影者の位置づけは絶対的なものではありません。撮影は、写真という全体のゲームのなかの一部となります。撮影は、重要な場合もあれば、それほどでもない場合もあります。その作品の作家は、制作のコンセプトやプログラムを創案し、実施する主体としての人間であって、必ずしも撮影する必要もありません。にもかかわらず、その人の意志なしでは生み出されなかったものが、作品として存在します。こうした形での写真表現のあり方が、堂々と認められる時代に状況は変わってきました。写真のゲーム化は、セルフポートレート的な作品に顕著に見えますが、実は、そうした作品に限らず、さまざまなテーマでその可能性を広げています。三人の作家、北野謙、城田圭介、土屋伸一を紹介しましょう。

北野謙は、写真のなかでも最も伝統的なポートレートの領域で、新たな可能性を切り開いています。ある職種やグループに属する人々の肖像を撮影し、その全員の肖像を重ねて焼き付け、最終的に一枚のポートレートを作ります。たとえば、「東京のキャバクラ嬢 29人を重ねた肖像」(東京都)、あるいは東京・千葉の医師・歯科医師 60人を重ねた肖像」(東京都・千葉県)、最大の人数は「日本に暮らす様々な人々3,141人を重ねた肖像」…のようにです。彼は、1999年頃からこのプロジェクトを全国規模で実施してきました。そうして作られた一枚のポートレートに現れるのは、その集団の平均値としての顔のように見えますが、北野の作品が目的とするのは、個性を抹殺することではけしてなく、個々の属する集団の家族的類似性、あるいは個々のアイデンティティーの基盤を露にすることなのです。グローバリゼーションの進展の中で一層、流動化にさらされている個々のアイデンティティーの場を確認するための手法なのです。彼は、この方法を、世界規模で展開しようと考えています。そういう写真のゲームなのです。


城田圭介は、自動車や徒歩で通りすがりの何気ない風景をコンパクトカメラで撮影した一枚のカラー写真をキャンバスに貼付け、それを元に、今度は、その外側に広がる光景の続きを、アクリル絵具を使ってモノクロームの色彩で描き上げて作品にしています。写真に写された「いま」「ここ」の光景が、絵筆でもって、写真に写された空間の構造をなぞり、連続性を保ちながらも、フォトリアリズム的に細密に描かれるのではなく、記憶と想像のイメージをなぞるようにして、ときに省略され、ときに創作されて変容され、写真の明瞭性から不確実性、曖昧性の領域へと拡散していきます。そういう写真ゲームです。城田は、こう書いています。「写真の続きをペインティングで描き出す。それは写真に写された内容がペインティングによって変容され、記憶や存在の不確実さを知る作業に他ならない。そうしてつくり出された風景はとりもなおさず、私達が身を置く世界そのものなのである。」「いま」「ここ」にない遠隔の場所の情報や映像を一瞬にして「いま」、「ここ」の世界に引き寄せることを可能にしたデジタルメディア環境は、私たちの時間・空間の感覚に変容と再構築を迫っています。城田の作品は、明瞭さと曖昧さが同居する今日の我々の日常的な世界体験の感覚にコミットしているように思われます。


土屋紳一の作品を見ていると、結局は、風景も、なんらかのゲームの駒に転じることができるのかもしれないと思わせられます。通りすがりの地面を撮影した写真を用いた土屋の作品は、奇妙な空間の歪みをともなっており、見る者に不安定な感覚を呼び起こすます。見ている自分の位置が、まるで、舗道の上に浮遊しているかのような位置に感じられます。大型カメラで45度斜めに撮影した遠近法的な広がりのある画像を、コンピュータのソフトウエアであたかも真上から見たように変換するという単純なルールを一貫して適用することによって、生み出された画像です。サイト・グラフィックのなかでは、場所はひとつのサンプリングの要素として機能することができます。そのような場所は、もはや、歴史的な場所でも社会的な意義が込められた場所でもく、制作のルールが適用されるアーギュメント(項)としての場所であり、その意味でも無差別的であり中性的なのです。この意味で、サイト・グラフィックスは、写真のゲーム化のひとつの現れと見ることもできるのです。 つまり、世界ネットワークとグローバリゼーションの進行とともに、場所の意味、自己や共同体のアイデンティティーも漂流化するなかで、写真表現のあらゆる領域において、写真ゲームの地平が広がっているのです。


4.0 結語


1929年にドイツのシュトゥットガルトで開催された歴史的な展覧会、「映画と写真」(Film und Foto)展の開催に合わせて出版されたカタログ「foto-auge 」の表紙には、「構成者」と題されたエル・リシツキーのフォトモンタージュが用いられています。そこでは、リシツキーの顔の眼のあたりに、コンパスを持った手と方眼紙、そしてアルファベットのXYZが重ね合わせられていました。そこには、20世紀のマシーンエイジにおいて来るべき映像化社会で活躍する新たなタイプの芸術家の姿と、視覚メディアによる創造的世界と知的世界の広がりのイメージが浮かんでいます。 21世紀の写真の作家のイメージはどうなるのでしょうか。コンパスの代わりにマウス、方眼紙の代わりにネットに繋がったディスプレイを重ね合わせればいいのでしょうか。いや、それだけではなく、さまざまなメディアや道具を(絵筆ですら)重ね合わせることが可能なのかもしれません。そこに浮かび上がってくるのは、たとえば、写真を用いたゲームのデザイナー、あるいはプログラマー、あるいはエンジニアのイメージなのでしょうか、どうなのでしょうか? あなたは、どんなイメージを浮かべるのでしょうか?


(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)

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