2014年9月30日
執筆 深川雅文
闇の光 吉村朗の軌跡
I. 飛翔/SOAR 1980~1993年
「ウィークエンド・ピクチュア」
吉村朗(よしむら あきら)の名前が、わが国の写真の世界に期待すべき新進作家として登場し始めるのは、1980年代半ばからのことである。人々が往来し蝟集する路上や公園など日常的な生活空間での人間模様を独自の視点で捉えるスナップ写真家として脚光を浴びた。その最も象徴的な出来事に、1988年3月に発刊された『 日本写真全集12巻 ニューウェーブ 』での吉村の作品「ウィークエンド・ピクチュア」の(1983)の掲載がある。この巻は、「ニューウェーブ」と題されて、当時のわが国の現代写真を担う注目の写真家たちの仕事が紹介されていた。掲載されたのは、夏の日にひとびとが集まって楽しんでいるプールの人間模様の写真であった。写真に添えられた、作家紹介の文章は次のようなものであった。
「ウィークエンド・ピクチュア」 吉村晃(ルビ: よしむら あきら)昭和58年 (1983) 昭和34年 (1959) 福岡県北九州市生まれ。57年 (1982) 日本大学芸術学部写真学科卒。59年 (1984) 東京綜合写真専門学校研究科卒。在学中よりグループ展を中心に活動。個展に59(1984)年「ウォーカーズ パラダイス」、60年 (1985)「On Photography」、62年 (1987)「IMAGES」。(吉村は、1991年に「晃」の字を「朗」に改名した。戸籍上の改名ではなかった。)
写真評論家であり吉村が学んだ東京綜合写真専門学校の創設者かつ校長でもあった重森弘淹は、『日本写真全集』の同巻に寄せた文章「総論 ニューウェーブ」で80年代の写真の動向を論じ、吉村のこの作品を取り上げ「(その作品は)現代の大衆社会とその風俗が、虚構そのもののようなカラー写真の色調に奇妙にぴったりとしている。」と述べ、虚構性を帯びた現代社会のあり方を、それに相応しい禍々しいカラーの色調で描き出した作品として高く評価している。写真評論家の平木収は、連載写真家論「現代写真の元気な冒険者たち」のシリーズで「ヒトの風景を見つめる 吉村晃」と題して取り上げている。この吉村論のなかで、前述の作品「ウィークエンドピクチャー」の中心にに写っている「お父さん」の存在に着目し、家族や友達といった人間の関係をスナップで掬い取るという当時の吉村作品の特徴を紹介した。また、平木は、吉村のスナップショットの特徴は、広く流布している通常の意味での「瞬間芸術」としてのスナップショットではなく「ソーシャル・ランドスケープ(社会的風景)をもっと細分化した人間の、あるいは人間関係の風景である」という分析を行っている。1980年代、吉村は、伝統的なスナップショットとは一線を画するスナップショットの新たな可能性を切り拓く写真家として脚光を浴びながら、ギャラリーや雑誌で積極的に作品を発表していった。
この時期、スナップショットは、吉村にとって最も重要な写真の方法論であった。1985年12月、銀座のギャラリー葉で現代美術展「WINDOW OF DECEMBER 新空間の共有」が開催され、吉村は、絵画やインスタレーションなど多彩な参加作家のなかで唯一の写真作家としては参加していた。吉村は、この展覧会で、上野公園で撮影した家族や子どもたちのカラーのスナップ作品を展示し、展覧会パンフのなかで写真の作品について次のように記している。
「色彩を特殊な問題として取り扱わないと云う柔軟性と、写真が作品として成立し得ると云う考えのもとでの発想ですけれど。優れた写真作品である為に必要な条件とは、①記録としての価値。②偶然性が生み出す衝撃力。③その他(原文傍点あり)。①と②は写真美(原文傍点あり)が有効に機能する為に不可欠な条件です。①は時間的経過により力を発揮します。②を際立たせる為に私はスナップショットと云う技法を用いています。③その他にも様々な条件が要りますが、これは作者にとって取るに足らぬ、雑然とした未整理の部分をたくさん作品中に残すことである程度の効果を期待しています。」
吉村がカメラを向けたのは、路上や公園など日常的な場面で見いだされる光景であるが、その場面を作品化の意図をもってスナップショットで切り込んで一瞬を定着すると、既存の日常的光景に対して微妙なズレが生み出され、一転して非日常的なイメージが生起してくる。日常的な視覚が、作家の意志とその意志でコントロールできない偶然性の介在によって異化され、そこに「衝撃力」が生まれる。その力は、写真ならではの表現であるとともに、絵画や立体造形など現代美術のジャンルと同じ土俵で対抗しうる芸術表現としての力を持つということを吉村はこのグループ展のなかで主張したかったように思われる。
「WALKER'S PARADISE」―初個展―
この展覧会の前年の1984年は、初個展を開くなど、作家活動を本格化させた重要な年となった。
ギャラリー葉で開催された初個展「WALKER'S PARADISE」では、歩行者天国を散歩する人々を撮影したカラーのスナップが展示され、そこには吉村の独自の視点がすでに明確に貫かれていた。本展に関して特筆すべきは、写真展であるのに、案内のDMには写真を載せずに自らが手描きした太極拳の所作の図解を掲載し、また、展示場にはビデオセットを持ち込み、作品とは直接関係のない怪獣物のビデオを借りてきて流すなど、一般的な写真展とは異なる趣きを加えていた点である。こうした趣向は、作家としてスタートする初期の段階から、発表の場を写真専門の場に限るのでなく、現代美術グループ展に積極的に参加する姿勢に見られるように、より開かれた芸術表現の地平で勝負したいという意志から生まれたと思われる。芸術家への志向は、吉村は、幼い頃から絵を描くことも好きで得意とし、大学受験に際して、写真家だけではなく、画家の道も志望し、東京芸術大学も受験したという経歴からも見て取れる。
同年、初個展の直後に、新宿のオリンパスギャラリーで、吉村が在籍していた東京綜合写真専門学校の研究科の卒業展「個・展」が開催されて参加した。その展覧会の案内DMには、前出のプールサイドで撮った写真がカラーネガフィルムのコンタクトプリントの形で掲載されており、卒業生のなかでも注目されていたことがわかる。
吉村の活動は、同校研究科在学時から学校の枠を超えた広がりを見せていた。1984年の5月、茨城県筑波研究学園都市にある筑波大学の大学会館ギャラリーと芸術学系工房ギャラリーで、現代写真の展覧会「15 contemporary photographic expressions 3rd」が開催され、参加作家のひとりに名を連ねている。この展覧会には、筑波大学の芸術専門学群に在学中の学生からフリーの写真家まで多様な出自の若手作家が参加し、現代写真の新たな多様な表現を紹介する展覧会であった。この展覧会に吉村が出品したのは休日の新宿、渋谷などで撮影された人々の路上風景で、「にちようび」というタイトルであった。同展のカタログに掲載された自身の肩書きには明確に「写真家」とあり、作家として進んでいくことへの意志が端的に示されている。その翌年、1985年に、茨城県の筑波市では、つくば科学万博開催に合わせ、日本で最初の写真美術館「つくば写真美術館'85」が期間限定でオープンし、そこで開催された展覧会「パリ、ニューヨーク、東京」の日本の現代写真家を紹介するコーナーの中で、吉村も紹介された。このコーナーに選ばれた写真家のなかには、前述の「15 contemporary photographic expressions 3rd」展に参加し畠山直哉、築地仁、島尾伸三、長船常利などの名前も見られる。この美術館は、日本の写真専門ギャラリーの草分けのひとつであるツァイト・フォトのディレクター、石原悦郎が実現したもので、まだ日本には無かった本格的な「写真の美術館」を実現してみせた画期的な試みであり、そのメインの企画が、自らのコレクションで写真の歴史をその発祥時から現代まで辿ろうという写真展「パリ、ニューヨーク、東京」であった。本展の日本の現代写真のコーナーで紹介された26名の写真家には、柴田敏雄、畠山直哉、小林のりお、伊奈英次など、その後、90年代の日本の現代写真を牽引していく主要な作家が含まれていた。初個展の開催に続く筑波での展覧会への参加によって、吉村は、新世代の写真作家としての存在感を内外に広く示すことになった。
たんなるカメラマンではなく、作家としての写真家になりたいという強い意志は、すでに大学時代に芽生えていた。1980年、日本大学芸術学部写真学科三年生の夏に、吉村は、オーストリアのザルツブルクで開催されていた国際的な写真ワークショップ「ザルツブルク・カレッジ・インターナショナル・フォトワークショップ」に参加した。70年代にスタートしたこのワークショップには、写真表現の第一線で活躍する、国際的に著名な写真家を講師に招き、アメリカの大学からの参加者を中心に諸外国の受講者を集めていた。1979年には、写真家の細江英公が講師として招かれており、国内の写真関係者にも知られるようになった。1980年夏のワークショップには、講師の一人として、当時、ウィーン在住の写真家、田中長徳がいた。招聘される講師が、作家性の高い写真家であることからも推測できるように(たとえば、ラルフ・ギブソン、シンディ・シャーマンなども含まれている)、表現としての写真を学ぶことを主眼としていた。このワークショップに参加して、吉村は、新たな写真表現を産みだすための実践的な訓練を受けるとともに、同時代のさまざまな写真家の仕事を見聞きし、作家としての表現の独自性とは何なのかについての知見を得た。オーストリアでのワークショップ終了後、しばらくヨーロッパ滞在を続け、ドイツ、ベルギー、フランスなどを旅して撮影した。日本では当時、アメリカの写真の影響が大きく、情報としてもアメリカ経由のものが多かったが、吉村は、たとえば、ドイツの写真家、ヴィルヘルム・シュールマンなど日本ではほとんど紹介されていなかった、ヨーロッパ圏の写真家たちの作品の動向に触れることで、写真表現の広がりを国際的な視野で見ることも学んだ。1982年、日大芸術学部写真学科卒業後、数々の写真作家を世に送り出してきた東京綜合写真専門学校研究科に入学したのは、国内外の写真表現の世界をさらに探求し、自らの作家性を確立するための研鑽の場を求めての決断であったと思われる。
作家として生き抜くためには、たんに「いい写真」を撮ることができるだけでは不十分で、作品の独自性が問われる。吉村は、写真家を志向した当初からこのことに意識的であった。それは、初期の段階では、さまざまな作家のスタイルに注目して、それを取り入れるという形で現れた。写真評論家の平木収は、前出の連載写真家論のなかで、吉村の写真を初めて見たときの印象を「“スタイルを無理に作ろうとしている”という感じ」と記している。「吉村晃は目先のスタイルというかパッと見た様式をとにかくよく変えた。いわくジョール・マイヤーウィッツ風、田中長徳風、島尾伸三風、マーチン・パー風、そしてひっくるめてアメリカの“ニューカラー”風。モノクロでは、ウィノグランドやパパジョージに見えたりもする。器用なのである。」 筆者は、80年代の末に、キュレーターと作家という関係で吉村と出会い、その作品を見始めた。当時、吉村が自分の作品について語るとき、さまざまな写真家の傾向の話が出て、同様の印象を持ったことがある。ただし、その後の吉村の展開を振り返ると、たんに流行を追うというのではなく、同時代の写真表現に関して、日本国内のみでなく国際的な視野を持ってさまざまな動向に敏感に目を配りながら、独自性を確立するためにスタイルの実験を行っていたと思われる。吉村の初期の代表作であり、冒頭に紹介した「ウィークエンド・ピクチュア」は、こうした試行錯誤の実験を経て結実した作品であった。そこからは、吉村が吸収した同時代の現代写真のいくつかの兆候を垣間見ることができるが、それらを作品制作の過程で実験し消化した結果、生まれた吉村ならではの作品であった。こうした作品により、「吉村=スナップショットの独自な作家」という認識が広がるが、当の本人は、取り入れたスタイルを、自身の作品のアイデンティティーにとって絶対的なものと考えていたのではなく、写真表現のさまざまなスタイルに対して距離感を保つ冷静な態度を有していたことも書き添えておかなければならない。
1985年、二回目の個展「On Photography」(ギャラリー葉)では、ストリートスナップにおける色彩の可能性を探ろうとする作品を発表した。これは、80年代初頭にアメリカに生まれて注目された「ニューカラー」という写真表現の動向を彷彿とさせる作品であったが、展覧会タイトルに暗示されているように、そうした動向をたんに真似るのではなく、写真の方法論自身を問いかける姿勢が感じられる作品であった。写真に没入する一方で、そこから一瞬、抜け出し距離をとって客観視するようなアクロバット的な精神の運動が吉村の中にはあったと思われる。1983年の現代美術のグループ三人展「Superpositions」(ギャラリー葉)への参加に見られるように、初期の段階で、写真という領域に自らを閉ざすのではなく現代美術の他ジャンルとの交流を行うグループ展に積極的に参加し、写真固有の芸術的可能性を他ジャンルの作品との競演のなかで追求していた。その姿勢からは、写真に身を投じ没頭しながらも、写真というメディアに距離を取り、相対化するという独自のスタンスが見えてくる。このスタンスには、そもそも、吉村は若き日に画家を志しながら写真を手段として選んだということとも深く関わっていたと思われる。
1985年は、つくば写真美術館での「パリ・ニューヨーク・東京」展への参加、ギャラリー葉での現代美術のグループ展「WINDOW OF DECEMBER」への参加など、吉村の作家人生のなかでひとつのターニングポイントの年となった。東京綜合写真専門学校研究科を卒業後、たかだか1年しかたっていないことを考えると、驚くべき展開であった。その後、80年代後半から90年代初頭にかけて、自らの作品発表の場を広げながら、スナップショットの注目作家として、同時代の写真家と写真に関心を持つ人々のなかで、その名が知られるようになった。この時期に吉村が参加したいくつかの展覧会について触れておこう。
1987年に、有楽町朝日ギャラリーで開催された「写真・展」は、写真家の谷口雅が企画した現代写真のグループ展である。参加したのは、伊藤義彦、伊奈英次、小林のりお、笹谷高弘、柴田敏雄、吉田友彦、吉村晃の七人であった。谷口雅は、つくば写真美術館で開催された1985年の「パリ、東京、ニューヨーク」展のキュレーターのひとりであり、わが国の新進の現代写真作家の発掘と育成を意識した写真展の企画と作品発表の磁場を形成することに尽力した。本展覧会は、そうした意図の下に谷口が中心となって企画した「PHOTOGRAPHY METROPOLICE TOKYO 1987 」という写真イベントのプログラムの一つとして実施された。吉村が発表したのは、前述の「On Photography」で発表した作品に連なるカラーのスナップ作品であった。
1988年には、吉村は、Gアートギャラリーで善財一との二人展、「Another Glimpse」展を開催する。ともに公共空間に集まる人々のスナップショットを手法として取りながら、作風が異なる二人の写真家による、いわば「セッション」的な展覧会であった。吉村はカラーのストリートスナップショット、善財はモノクロのスナップを発表した。この展覧会には、カメラ雑誌や美術雑誌でも取り上げられるなど、メディアからの反応もあった。本展覧会での吉村の作品は、「ここち良いひととき」という題名で1988年の日本カメラ9月号で紹介されている。注目すべき写真展や写真集を対談形式でピックアップするアサヒカメラのフォトウォッチングのコーナーで、日本カメラでの吉村作品が取り上げられ、当時のレギュラーメンバー、玉田顕一郎は、「ここちよいひとときなんだけで、なんだかシラケた時代、という感じをとらえている。」と述べている。吉村は展覧会告知用のパンフで自分の作品の下に次のような言葉を載せていた。「モティーフとの関係に隷属するための、隷属からの後退」路上での被写体にぎりぎりと肉薄しながらも、どこかで醒めた眼でその現象から距離を取って、見つめている吉村の姿勢がこの言葉から読み取れる。「なんだかシラケた」という玉田の言葉は、こうした姿勢に触れていたのである。この展覧会は、1988年の美術手帖11月号の展評欄でも「写真作品の交流空間 善財一・吉村晃二人展 "Another GLIMPSE"」(執筆 平木収)というタイトルで取り上げられた。
スナップショットを共通の手法とする複数の写真家によるセッションという形式の展覧会に、吉村は積極的に参加している。1989年には、東京・自由が丘のインペリアルギャラリーでの豊原康久との二人展、「Keep Still -可能性に対応する現実体-」を開催する。展示された写真は、豊原はモノクロで吉村はカラーであった。その直後に、吉村はイトウユミコとの二人展「STATICS PART2」を三菱フォトギャラリーで開催した。さらに、同年の秋、善財、豊原、吉村の三人による新宿のオリンパスギャラリーでの展覧会「視覚幻実」に参加した。この展覧会のニュースリリースの冒頭には次のような言葉が見られる。「どれほど美しく又は心を打つ映像であろうとも、創造された世界を見せられることについては近頃少々食傷気味である。だからと、あえて強調したいのだが、偶然にしかも作者により個性の貫かれた眼を通して掘り出された現実空世界の視覚体験をすることは最も面白い。」(文:善財一)同年の年末の12月には、同じく、インペリアルギャラリーでスナップショットの四人展「LIKE A BLIND CAT PART2」が開催され、吉村、善財一、徳永浩一そして山崎弘義が参加した。希薄化する現実の手がかりを求めて作家たちがストリートスナップに活路を求めていた様子が伺える。
「街路疾走」、「街路迷走」、「街路を走る」
吉村が写真作家として活動を展開した80年代、日本の芸術文化としての写真のあり方に目を転ずると、写真の文化としての価値を社会的に認知させ、定着させることを目指して、写真美術館設立の運動が力強く推進されつつあった。前出した「つくば写真美術館」は、ツァイトフォトのディレクター、石原悦郎の個人的なイニシアティブによって設立された先駆的試みであったが、同時並行的に、自治体レベルで写真に関する本格的な文化施設を設立する計画が進行していった。その結果、1988年に、わが国で初の本格的な写真コレクションと写真部門を持つ公立のミュージアム、川崎市市民ミュージアムが設立された。翌年1989年には、横浜美術館が設立され、同様に写真コレクションを備え、写真に力を入れるミュージアムが誕生し、その流れが、1990年のわが国初の写真の専門美術館、東京都写真美術館の設立へと繋がっていった。
先陣を切った川崎市市民ミュージアムは、国内外の写真の歴史に関する展示企画を行うとともに、設立当初より、同時代の写真表現の可能性を積極的に紹介する方針を立てていた。写真評論家であり、同部門の最初の写真の学芸員となった平木収は、準備室の時期から、開館後の写真の企画展の柱のひとつとして現代写真をテーマに据えることを決心していた。その最初の企画展として、開館1年後に開催されたのが「現代写真の動向・展 TREND'89」である。9人と一組の作家(総数11人)がこの展覧会に選ばれた。その中に、吉村晃の名前があった。他の展示作家は次のとおりである…伊田明宏+上野修、五井毅彦、杉本博司、鈴木清、柴田敏雄、谷口雅、港千尋、ルイス・ボルツ、山本糾。なお、本展の作家選定には、写真家で写真評論家の谷口雅がゲストキュレーターとして加わり、学芸員の平木収と協議しながら展覧会を組み立てた。
展覧会カタログのあいさつ文に、選ばれた作家の特徴について次のように述べられている。「今回ご紹介いたします11人の写真家の方々は、現代をとりまくさまざまな状況の中で、鋭く研ぎすまされた感性とそれぞれの手法で対象に迫りながら、これまでの写真表現には立ち現れていなかった写真世界を、先取的に切り開こうとしています。」吉村晃は、80年代半ばから89年に至る積極的な発表活動が注目され、スナップショットによる新たな写真表現の可能性に取り組んでいる作家として選ばれた。本展では、「街路疾走 RUN THROUGH THE STREET 」というタイトルで、モノクロとカラーの両方からなるストリートスナップの作品を発表した。「現代写真の動向・展 TREND'89」は、吉村が美術館での写真の企画展に参加した初の展覧会となった。その後、シリーズ化されて、1995年と2000年に開催された「現代写真の動向・展」にも吉村は参加することになる。
こうした80年代の一連の展覧会での発表を通して、スナップショットの新鋭作家、吉村晃という認識が写真の世界には広まっていった。その後、90年代から2000年代にかけて、ストリート・スナップの作家のグループ展に参加するなど、吉村とスナップショットの結びつきは深かった。ところが、2010年代に入って、本人が下した決断は、衝撃的なものであった。これまで紹介してきた80年代の吉村の展覧会活動で発表されてきたスナップショットの作品群は、ほんの一部(数点)を除いて、作品としてはまとまった形ではほとんど残っていないのである。吉村が、2010年に東京から実家のある北九州市門司に引っ越しした際にまとめて送り、整理した作品・資料の類いが収められた段ボールが実家に残されている。その中には、展覧会や雑誌などで発表された吉村の代表的なストリートスナップの写真は断片的にしか見られない。韓国で撮ったストリートスナップのみが例外で、幾分、まとまった形でプリントが残されている。本論の冒頭で触れた、吉村の名前を広く知らしめることになった、日本写真全集に掲載された初期の代表作、「ウィークエンド・ピクチャー」のプールサイドのプリントも見つからない。調査の過程で、入校用に作品を複写したと思われる、4×5サイズのポジが一点だけがかろうじて発見された。自身の作品の処理について記したメモの一節に次のようなものがある。「90年代の大半は廃棄した。」資料を調査した結果、90年代以前の代表作もほとんど見つけることができず、作家の意志で残されていないことが判明した。
このことは何を意味するのだろうか。
吉村の作家活動の全体を前期と後期に分けると、1989年から1991年にかけて、「現代写真の動向・展」への参加などを含めて、ストリートスナップの写真家としての前期のひとつのピークに達しつつあった。1990年は、展覧会での発表活動を一切行っていないが、1991年には、「日本カメラ」誌上で、路上スナップのシリーズ「街路迷走」を一年間連載した。90年代最初の個展は、1991年11月に開催された平永町橋ギャラリーでの「街路迷走 HOMELESS RUN」である。これは「日本カメラ」で連載した作品を展示したもので、川崎で展示した「街路疾走」の流れにある作品であった。この年、個人的な出来事であるが、「吉村朗」に改名(読み方は変わらない)しており、作家名としてもこの名前を使い始めた。1992年は、個展・グループ展ともに展覧会を行っていない。これは、振り返ってみると、新たな転回へのひとつの予兆であったと思われる。その年に吉村が手描きしたドローイング作品がある。若き日に画家を志向した吉村の姿が垣間見られる。「鳥―B.S.へ」(Birds for Ben Shahn 墨汁・インク(コピー) 20.3×25.4cm)と名付けられた、鳥をモチーフにしたドローイング作品である。吉村は、これを1993年(酉年)の年賀状のメインイメージとして印刷して送付している。
1993年の夏、銀座ニコンサロンで個展「街路を走る RUN THROUGH THE STREET 1989-1993」が開催された。 路上のスナップシューターとしての作家の力量が存分に発揮されており、1992年の短い沈黙を払拭する力強い展覧会であった。その一方で、作家の新たな展開を予感させる内容も含んでいた。『アサヒグラフ』のコラムに本展の展評が掲載されているが、そこには作家の変化の予感も含めて次のように記されている。
「…展示は、まず、東京と川崎などで街を歩く人を撮った縦位置の大伸ばし三点で始まる。…さて、展示半ばに、古い絵を複写した写真がくる。聞くところによると、関東大震災の絵図だという。その辺りから後半部に入る。日本かなと思ってよく見ると、ハングル文字が看板に踊っており韓国の街のシリーズとなる。吉村の新たな展開である。心持ち、対象への距離、感情の持ち方に変化が見られる。スタンスが違ってきているのだ。近くとも異国であるがゆえだろうか、前半、決まっていたカウンターが紙一重のところでヒットしないいようなズレを覚えた。
震災絵図の複写に見てとれるように、今回の構成から、彼の中に、日本と韓国の関係に対する歴史的な関心が形を取り始めていることが感じさせられた。この動きは、彼の対象へのスタンスの変更を伴わずにはいないだろう。そうしたときに、都市に棲む現代人の生態を独自の観点から暴いてきたあの特異なカウンターパンチがどうなるのだろうか。今後の展開に注目したい。」(文 深川雅文 )
この展覧会は、吉村が80年代に展開してきたストリートスナップ作品の流れに連なる最後の展示となった。と同時に、日本と韓国の関係を巡る歴史上の屈折に対する作家の新たな関心と取組が本展で芽生えており、90年代初頭に大きな転回を見せることになる吉村のその後の作品に繋がる内容を孕んでいた点でひとつのターニングポイントとなった。
Ⅱ 転回/SPIN 1993~2006
「THE ROUTE 釜山・1993」
「街路を走る」の展示の直後、1993年11月に、「街路を走る」にも部分的に含まれていた韓国での撮影をメインにした写真展「THE ROUTE 釜山・1993」が平永町橋ギャラリーで開催された。DMの写真には、釜山市の写真館のショーウィンドウにそこで撮影された肖像がディスプレイされている様子を撮った作品が使われている。吉村の作品に登場してきた路上で遭遇したリアルな人々の姿は影を潜めている。案内のDMには「ネガカラーによる新作を発表します」との一文が添えられており、新たな方向への舵取りが暗示されていた。
釜山は、朝鮮半島南東部に位置する港湾都市である。日本に最も近い韓国の大都市であり、古くから日本との交流の窓口となってきたという歴史がある。北部九州の大都市、福岡市や下関市から約200キロの圏内にあり、関係が深い。吉村の実家は、北九州市の門司にある。韓国・朝鮮への重要な窓口であった釜山は、吉村が生まれた吉村家にとっても、特別な意味合いを持つ街であった。というのは、韓国併合に始まる日本統治時代に、父方の祖父は第二次世界大戦以前に朝鮮総督府に勤務しており、一族からは、現地で働く軍人、警官、医師を輩出するなど、韓国・朝鮮との縁が深い家であったからである。吉村の父は、終戦まで韓国で医師として働いていた。「THE ROUTE」には、日本からの韓国への「道」であるとともに、吉村個人にとっては吉村家のルーツを辿る「道」という二重の象徴的意味を含んでいたと思われる。韓国で日本が行った侵略的行為の歴史、そして、日本統治下の韓国に入植者としての関わりをもった吉村家の歴史を問いかける撮影の旅が、作品として明確な姿を見せたのが、この展覧会であった。吉村の意識のなかで、日本の侵略の歴史と吉村個人の歴史を問いかけなければならないという想いが大きく膨らんでいた。その強迫観念に突き動かされるようにして、韓国だけでなく、中国を含むその他、かつて帝国日本が猛威を振るったアジアの侵略地域で撮影し、同時に帝国日本の野望を叶えるべく国内各地に設置されて今日に密かに残っている戦争遺跡にカメラを向け、近代日本の帝国主義的な侵略史を自らの家族の歴史的出自とともに問いかけるという独自の姿勢を明確にしていった。その発端となったのが、本展であった。この作品は、1993年の日本カメラ11月号にも掲載され、作者のコメントを紹介する「口絵ノート」で吉村は、次のように記し新たな作品の進路を示している。
「吉村朗 釜山・1993
R・T・バッカー(古生物学者 恐竜温血説の提唱者)の受け売りで申し訳ないが、恐竜が絶滅した白亜紀の終わりのころ、地球は数千万年に及ぶ近く変動や海退などの結果、幾つかの大陸が互いに、地続きとなった時代であった。大型動物の行う特徴的な“集団大移動”を恐竜達も行い、これが大規模な疫病の発生を招く結果となった。これはとほうもない規模の遺伝子の融合によって起きる種の腐蝕である。もし天体の衝突が白亜紀末の大量絶滅を引き起こしたとするならば、生き残った(当時から現在まで種ぎ引き続いている)定住型の弱い小動物の説明がつかないのだ。つまり人類史上の大規模な移動―近代の帝国主義に至るまでの侵略史は、この様にして遺伝子学や免疫学などと結びついてしまうのだ。少々強引かなあ?でもとりあえずラインだけは確認しておこう。境界を越え移動する者は危険だ。CAUTION! YOU ARE CROSSING THE 38゜PARALLEL [筆者訳 警告! 南北朝鮮国境の38度線を越えるな]」
「分水嶺」
終戦50周年の年にあたる1995年に入って早々の2月に、銀座ニコンサロンで吉村朗写真展「分水嶺」が開催される。日本の大陸侵略の歴史的痕跡を、韓国・北朝鮮・中国が接する国境地帯への旅のなかで探し求めた写真を中心にしたモノクロの作品である。たとえば、日中戦争勃発の引き金となった盧溝橋事件で破壊された盧溝橋の欄干、瀋陽市の毛沢東像、北朝鮮に接する中国国境の街、図們の街路、その地に住む朝鮮族の人々の踊る姿、南北分断の象徴、板門店の軍事停戦委員会会議場と板門閣付近の様子、ソウルの西大門独立公園の記念碑などが暗く沈む込むようなトーンを基調に私的な視点で捉えられている。さらに、テレビ放映された金日成の葬儀の様子を画面上で捉えた写真も加わる。金日成総書記は、1994年に死亡した。世襲で総書記は引き継がれ、体制崩壊することなく今日に至っている。タイトルの「分水嶺」は国家を分ける国境を暗示しており、日本の大陸侵略を発端に生まれた、中国・朝鮮の国境を巡る事象を、私的なまなざしで断片的に取り上げ、積み重ねることで歴史を問い直そうとする作家の姿勢が総体として滲み出している。
この作品は、いくつかのルートから中国・韓国・北朝鮮の国境線に迫っているが、中心となるのは、朝鮮半島を国家的に二分する38゜線であった。これは、帝国日本の侵略が同地域にもたらした歴史的痕跡の最たるものである。というのは、終戦とともに、日本人は、自らが始めた朝鮮統治を放棄し、その地を捨てて逃走し、その結果、生まれた統治の真空地帯のなかで、両大国、ソビエトとアメリカの国際的な政治的闘争の産物として38゜線をはさんで二つの国家に分断されることになったからである。このことについて、吉村は、展示場に掲示したパネルで次のように記している。
「本来あるべき姿に比べると、我々は半分しかめざめていない。我々の情熱は冷めており、力は抑制され、精神的、肉体的資源はごく一部しか使われていない。―ウィリアム・ジェイムズ
8月7日と8日の2日間、日本は一体何をやっていたのか―50年前の夏の話である。9日には長崎に第二の原爆が投下され、同時にソ連が対日参戦した。無敵であるはずの関東軍は敗走する。いや僅かに配置された前線の部隊をのぞいて逃走したと云った方が正確か。誰もいなくなった司令部には、開けっ放しになった金庫から金銀紙幣が風にまかせて散乱するがごとき有様で、訪れた現地邦人を唖然とさせた。ソ連はそながら無人の野を征くように10日には朝鮮領雄基に達した。そしてこの頃になって、ようやく高見の見物が出来ないことに気付いたアメリカは乗り出して来る。アメリカとソ連は朝鮮を協同統治することに合意はしていたものの、その境界線をどくにするかをはっきりと決めていなかったのである。この交渉に当たったのが、当時陸軍大佐であったD・ラスク(後の国務長官)である。このまま傍観すればソ連をおそらく半島全域を席捲するであろすと判断した彼は、ソ連軍に対して38度線を越えて進駐しない様にと警告した。つまりこの時の電話での数10分の話し合いにより、ほぼ現在の国境(その後の朝鮮戦争で多少変化した)は決定されてしまったのである。 ―もし(イフ)日本がもう一週間早くポツダム宣言を受諾していたら、そしてアメリカがここまで分割統治に固執していなかったならば?と私が考えるのは歴史の法則に反しているだろうか。」
吉村は、「分水嶺」が紹介された「日本カメラ」1995年2月号の作家のコメント欄でも、38゜線について取り上げている。
「分水嶺 吉村朗
“もし日本が8月7日か8日、つまりソ連の参戦する前にあの勝ち目のない戦争を諦めて降伏していたら、ソ連はせいぜい旧満州ぐいまでしか進駐してなかったのではないだろうか?”私の疑問である。頭の良い彼女はすぐに次のように返答した。“私もそう思います。ソ連が攻めてきたのは広島に原子爆弾が落とされたあとなのですから…、私も残念だわ”
歴史にIFは禁物だが、それにしても、なぜ塗りかえることが出来ないのか?
今にも雨の降り出しそうな12月30日、板門店ツアーの休憩所で、私はガイドの彼女と向かい合ってインスタントコーヒーを飲んでいる。」
「釜山・1993 THE ROUTE」から「分水嶺」へという作品の展開をとおして、吉村は、日本の侵略戦争にまつわる歴史的痕跡に作家の私的なまなざしを重ねながら、視覚的にコミットしようとする、それ以前の作品とは異なる方向性を明確に示した。新たな展開を見せた吉村の作品は、1995年に川崎市市民ミュージアムで開催された「現代写真の動向 another reality」展で、写真表現の新たな可能性を探る注目すべき作品のひとつとして選ばれて展示された。そこで発表されたのは、「分水嶺」を元にした作品で「審判」という題名がつけられていた。この展覧会には、吉村以外に 市川美幸、内田京子、五井毅彦、里博文、杉浦邦恵、瀬戸正人、楢橋朝子、畠山直哉、松江泰治が参加した。吉村の作品について、展覧会カタログの作品解説の中で、次のように語られている。
「自己と世界との関係そのものを凝視し、問いかけるという写真の流れは、すでに、わが国では60年代から70年代にかけて、森山大道、中平卓馬そして荒木経惟、深瀬昌久などの先達により、写真そのもののあり方を問うというラディカルな形で追求され、その精神は、その後も、さまざまな写真家により脈々と受け継がれてきた。こうした流れは、とりわけ、環境の人口化と電子メディアの浸透により現実の希薄化が速度を早めてきた90年代に入って、新たな意味と意義を持ちつつあるように思われる。…(中略)…80年代半ばに独自の距離感とタイミングをもった街路のスナップショッターとして注目された吉村朗は、90年代に入り、やおら日本の侵略戦争の事跡を韓国・朝鮮と中国で追い始めた。その作品は、戦争と国家の歴史を客観的事実として記録するのではなく、歴史に対する私的な感情や態度の、写真による表出といった趣きがある。現地に残る重苦しい歴史的時間の流れとの相克の場にあえて身を置いた写真家の作品を貫いているのは、50年以上の時を隔ててなおも我々に黙々と語りかけてくる歴史に関心と畏れを抱きつつも、歴史的な価値観が動揺する現代の状況のなかで、それにいかにして接近すればいいのかという問いに直面してアンヴィバレンスに揺れるまなざしである。その問いに答える声は明確には聞き取れないままに、それでも耳をそばだて、シャッターを切る作家の姿が浮かんでくる。歴史の相対化の進行、そして「私」と歴史的世界との流動化する関係がここには示されている。」
「分水嶺」は、評論家の関心も呼んだ。写真評論家の飯沢耕太郎は、「分水嶺」を『日本フォトコンテスト』の展評欄「飯沢耕太郎の写真展評」で「異なる政治体制を持つ韓民族への眼差し」という見出しで取り上げ、次のように記している。
「…吉村が今試みようとしているのは、平和ボケした日本の真ん中に"サラエボ"を作り出そうとするような、かなり無理を承知の作業であるように思う。だが、このような自らの想像力を極限近くまで使い切ろうという態度は重要なものである。「分水嶺」の次の展開を期待したい。」
「闇の呼ぶ声」
「分水嶺」の発表からほぼ一年経った1996年2月、1980年代のストリートスナップ時代から、吉村が発表の場としてしばしば使った銀座のギャラリー葉で、「闇の呼ぶ声―吉村朗写真展」が開催された。この作品では、「分水嶺」とは異なり、侵略戦争にまつわる複数の場所で撮った作品で組まれるのではなく、一カ所で撮影した作品を中核にして構成されているのが特徴的である。その一カ所とは、韓国のソウルにある西大門刑務所であった。日本が植民地化した朝鮮で、1908年に、日本の手により朝鮮初の近代的刑務所として「京城監獄」が設立され、その刑務所は、1923年から「西大門刑務所」という名称で呼ばれた。日本統治下の朝鮮で、独立を目指す運動家たちを収監し処罰を行う施設であった。1992年から、刑務所一帯が西大門独立記念公園となり、日本の植民地支配からの解放を目指した独立運動を記念する歴史的史跡として公開されている。吉村は、この史跡を冷徹な眼で客観的に捉えて紹介しようという態度では毛頭なく、私的なオブセッションに駆られるがままに暴力的に掴み取るようなイメージで提示している。
この作品の基軸となる重要な写真に、展覧会のDM葉書に使われた刑務所の監視塔の写真がある。展示では、ほぼ同じ角度で捉えた監視塔のイメージが、その構図や焼き方を微妙に変えたバリエーションで展開されていた。西大門刑務所の監視塔という侵略戦争に関わる象徴的な史跡を巡って、その像が、写真ごとに微妙な差異を生じさせながら、繰り返し繰り返し執拗に提示される。この繰り返しは、その被写体に対し、それが一体、何であるのか、いかなる存在であったのかという本質に対する問いかけの形であり、なおかつ、その問いに明確な答えを得ることができないもどかしさゆえに、さらに繰り返しを助長するという循環的な構造を示している。その執拗さは、観る者に苛立ちを覚えさせるとしても不思議はない。観る者の意識は、作家が問いかけを繰り返すなかで、落ち着く場所を見いだせず、いわば宙づりにされたままに留まるからである。
問いかけに対する答えは簡単には見つかりそうにはない。しかし、問いの方向性は、「分水嶺」から闇の呼ぶ越え」という作品展開のなかで、明確な姿を取りつつあった。「闇の呼ぶ声」と同じ年に制作されたと思われる葉書がある。展覧会告知のための葉書ではなく、自分の作品を葉書にしたものである。写真が一枚掲載され、「Akira Yoshimura Kami Tsushima 1996」と記されている。大陸に面する対馬海峡の防衛のための施設として、長崎県上対馬に昭和9年に設置された巨大砲台、豊砲台の跡を撮影した写真である。この葉書には、戦争史跡に関する吉村の姿勢を伺わせる言葉が宛名書きの面の下部に記されていて興味深い。次のように書かれている。
「それは目の前にあいた空虚な穴だった。私は日本近代がつくり出したその暗い廃墟を前にして、ただただ黙思するばかり―」
「日本近代」―それが、吉村の問いかけの先にあるものであった。韓国・朝鮮・中国への侵略的行為は、「日本近代」の闇の側面であった。その「闇の呼ぶ声」に耳を峙てながら、痕跡となる場所に写真で迫る姿勢を明確にしたのが本作であったのだ。ただし、一般的な報道写真のように、その非を単純に声高に糾弾するというモードではなく、もちろんそれを称揚するのではけしてなく、目前の現象との写真による対話を通して、黙思のプロセスに視覚的な表現を与えようとしている。吉村の作品が、歴史的事象に対する態度に関して、左翼からも右翼からも批判されうる過剰な曖昧さに支配されているのはそのためである。
同時期に、同じような経緯で制作されたと思われる、葉書が二枚ある。路上の歩道のマンホールから水が湧き出ている様子を撮影した写真(場所不明)が掲載された一枚の宛名書きの部分には、エドガー・アラン・ポーの「黒猫」からの一節の引用が記されている。
「私はこの怪物をも壁の中の墓へ塗りこめてしまったのだった―エドガア アラン ポー」
もう一枚は香港の建物を金網越しに撮った写真を掲載したもので、宛名書きの部分には、魯迅の「兎と猫」(1922年発表)の一節が引用されている。
「あの黒猫のやつ、いつまでも塀の上をわがもの顔に闊歩させるわけにはいかん、と私は心にきめた。そして我しらず本箱に隠してある青酸カリの瓶へちらと眼をやった―魯迅 〈兎と猫〉」
この引用の意図は、「日本近代」について言及した吉村の言葉と重ね合わせると、明確であろう。「この怪物」そして「あの黒猫」、いずれも、アジアを侵略した日本あるいは日本近代を暗示している。
「闇の呼ぶ声」で吉村が巡らした「黙思」の内容として、もうひとつ付け加えなければならないことがある。それは、その怪物は、吉村の内面にも潜むものであったということである。アサヒカメラの2005年5月号の「イメージステーション」における兼子裕代によるインタビュー記事「逸脱と反復そして情緒 吉村朗に聞いてみた歴史抱え表現する姿勢」で吉村は自らの家系について次のように語っている。
「戦争の歴史にこだわるのは自分の"ファミリー・ヒストリー"からきているのです。早くに西欧化されて朝鮮に入植した軍人とか医者、警官の家系で、近代のゆがみみたいなものが凝縮された家だったと思います。父の代まで外地にいたので、日本の近代化、戦争の歴史がそのまま家の歴史とだぶって、自分自身とも、現在の問題とも絡んでくるのです」
西大門刑務所は、日本が朝鮮統治を完遂する上で、独立を志向し抗日へと向かった"不穏分子"を圧殺するための暴力装置であり、警察権力の象徴であった。朝鮮統治下の警察組織に、自らの血縁者が関わっていたことを巡る、吉村の自らのルーツに向けた内面的な問いかけが、刑務所の写真の執拗なまでの繰り返しにも反映されている。近代化に突き進んだ結果、日本が近隣諸国にもたらした侵略という化物が残した、国内外のさまざまな歴史的史跡に向かった吉村の問いかけ先には、その近代化の流れの中で大陸で活躍した家族の歴史とそれに連なる自分自身の歴史があった。
「闇の呼ぶ声」は、吉村がその後の作品で展開するテーマとその表現のための写真表現の方向性が明確に示された作品として重要な里程標となった。
そもそも、吉村のなかで、ストリートスナップから侵略の史跡へという展開をもたらしたものはなんだったのだろうか?
吉村は、前述したインタビューのなかでこう答えている。
「最初に韓国へ行ったのは90年です。ベルリンの壁が崩壊したことに影響を受けたと思います。」
ベルリンの壁の崩壊とは何だったのか。当時の衝撃と熱狂は、いまや歴史の淵に忘れ去られているように思われる。吉村の作品の転回を理解する上で重要な出来事なので、少しだけ振り返っておきたい。
1989年11月9日、東ドイツ政府による国民の国外旅行と移住の手続きに関する簡略化の実施の発表が引き金となり、多くの東ドイツ市民がベルリンの壁に殺到し、西ベルリンへ雪崩れ込み、ベルリンの壁を破壊する市民も現れた。社会主義と資本主義の対立と分断の象徴でもあったベルリンの壁が一夜にして崩壊したのである。これにより、戦後、分断されてきたドイツの統一の歩みが始まるとともに、久しく世界をイデオロギー的に分断し、対立してきた東西両陣営の冷戦の終結に向かう歴史的な一撃となった。その背景には、1980年代の半ばには、東欧やソヴィエト連邦でも静かに進行していった民主化の動きがあった。ベルリンの壁崩壊の後、1990年10月には東西ドイツ統一が実現し、「東」の中核であったソヴィエト連邦が崩壊し、新たな政治・社会状況が生まれることになった。1961年にベルリンの壁が建造されて以来、その崩壊など想像できない状況が長く続いた。その崩壊は、かつては不動に思われた社会主義のイデオロギーとそれに基づく国家の国境線が消滅したのであるから、まさに歴史的な大事件であった。壁崩壊の模様は、マスメディアによって世界中に映像とともに紹介され、歴史的に絶対的に思われてきたものも必ずしもそうではなく、相対的な存在に転化することを、世界中の人々がリアルタイムで体験した。
その体験は、吉村の心にも、深く刻まれ、自身の世界観を震撼させたのである。壁崩壊後の流動的な世界に直面するなかで、吉村の関心の中心として浮かんできたのが、ベルリンの壁に匹敵する、アジアにおける東西対立の歴史的象徴である「38度線」のある韓国と北朝鮮であった。そこは、吉村家の家族史的にも重要な地域であり、日本近代への問いかけに自身の存在のあり方を重ね合わせるようになった吉村を、壁崩壊一年後の訪韓に突き動かしたと思われる。その成果が、「釜山 1993」「分水嶺」そして「闇の呼ぶ声」として発表された。
ところで、ベルリンは、ある写真家の作品を介して、吉村の作風の転換にも関わっていたと思われる。その写真家とは、ベルリン生まれの写真家、ミヒャエル・シュミットである。川崎市市民ミュージアムで開催され、吉村も参加したグループ展「現代写真の動向 TREND'89」は、1989年の10月22日に終了した。時期的には壁崩壊の直前であった。この展覧会に学芸員のひとりとして関わった筆者は、展覧会終了後に、ドイツの現代写真の調査のためにドイツを訪れ、壁崩壊の2日前までベルリンに滞在し、現地の緊迫した状況を体験した。帰国後、吉村に会い、壁崩壊直前のベルリンの様子やドイツの写真の状況について話した。その折に、吉村に見せた写真集のひとつに、ミヒャエル・シュミットの『休戦』があった。
1987年に出版された『休戦』は、東西ベルリンの分断によって西ベルリンを覆ってきた、緊張感に溢れ、行き場が無く落ち込んだ、この都市が内包する独自の雰囲気を、ベルリンの壁とその周辺に広がる荒れ地的な風景や街路の断片的な光景を中心に、ベルリンに住む作家の身のまわりの知人ならびに作家本人の肖像写真などを加えて構成されており、全般的に荒々しく、暗く落ち込んだトーンの写真で表現した作品であった。分断されたベルリンという歴史的事象に対して、極めて私的なまなざしを貫徹した『休戦』は、ドキュメンタリー写真の新たな可能性を切り開いた作品として、ドイツのみでなく国際的にも高く評価されることになり、1988年には、ニューヨーク近代美術館で展覧会が開かれたほどの話題作であった。ただし、80年代末当時、日本ではまだ知られざる作家であり作品であった。吉村にとっても、未知の写真家であった。
シュミットは、70年代に、フリーのフォトジャーナリストとして活動しながら、写真表現の新たな可能性を追求し、ベルリンをテーマにした作品を発表するとともに、写真ワークショップを主宰し、当時の先端的なアメリカの写真家(ウィリアム・エグルストンやルイス・ボルツなど)を講師に招くなどしてドイツの若手の写真家達に大きな刺激と影響を与えた。吉村が「闇の呼ぶ声」を発表した1996年には、壁崩壊後の都市ベルリンの断片の写真と身の回りの人々の肖像写真を中心に構成した作品「UNITY」を発表した。これは、 統合後もトラウマとしてドイツ人の社会に滞留する分断の跡の様相を描き、統一後のドイツ社会のありかたを問いかける問題作であった。この作品の展覧会が、同年、ニューヨークの近代美術館で開催された。
若くしてザルツブルクの写真ワークショップに参加して、当時の写真表現の最先端を走っていたアメリカとヨーロッパの写真に触れた吉村は、写真の国際的な動向に敏感で常に眼を配っていた。シュミットの作品との出会いは、吉村にとって重要な契機であったと思われるが、シュミットと吉村との関係は、軽やかにさまざまな国際的なスタイルを軽やかに「真似」て実験していた若き日の吉村に見られた頃の、海外の注目された写真家との関係とは異なっている。シュミットの作品との関わりで、吉村にとって、重要なのは作家の「姿勢」であって、「スタイル」ではなかった。日本近代を、残された侵略の史跡や関連する事象を捉えて、私的なまなざしで問いかけるという吉村が取った方向性は、シュミットの姿勢と共鳴する部分が少なくない。たとえば、「闇の呼ぶ声」は、その姿勢においてシュミットの作品と共鳴するところがあるが、その表現方法に関しては、微妙な差異をつけた西大門刑務所の写真の繰り返しに見られるように吉村独自の方法が支配しているからである。テーマ的にも重なる部分がある。
「釜山・1993 THE ROUTE」で吉村が迫り、歴史的意味を問いかけた「38度線」は、アジアにおける東西冷戦、南北朝線の分断の象徴であり、東西ドイツの分断の象徴であったベルリンの壁にパラレルに対応する事象であった。大きく異なるのは、ベルリンの壁崩壊直後は次は「38度線」が崩壊する番かと囁かれたが、崩壊することなく、今日も維持されているということである。吉村は、日本人かつアジア人の視点から、こうした特有の事象に独自のアプローチを試みていった。吉村は、自身の写真をシュミットに見せたいと思っていたかもしれない。その思いを実現することはできなくなった。シュミットは、2014年の5月に、ロンドンのヴィクトリア&アルバートでの国際写真賞大賞受賞の記念展の開催中、68歳でこの世を去ったからである。
シュミットと吉村の写真の共通点をあえて挙げるとしたら、作品に漂う、濃密な「雰囲気」が支配していることがある。吉村が作成したDMをまとめたファイルの中には、展覧会の告知とは別に、自身の作品を使った葉書が散見される。20世紀末が迫っていた1999年に作成した葉書が一枚ある。ソウルの街路で撮られた女子学生のモノクロ写真が掲載されている。宛名面の下の部分に、ロラン・バルトの次のような言葉が引用されている。
「雰囲気というもの(私は真実の表現をやむをえずこのように呼ぶ)は、自己同一性の、いわば手に負えない代理・補完物(シュプレマン)である。それはあらゆる《自負心》が消えたとき無心に示されるものだ。」―R.バルト〈明るい部屋〉
吉村にとってここで最も重要な言葉は「雰囲気というもの」であった。ストリートスナップを中心にした80年代の作品群は、写真の画質としては基本的に鮮明さが基調としてあった。90年代の転換以降の写真からは、鮮明な写真を含みつつも、ボケやブレをあえて排除しない曖昧な調子が支配的になった。写真で指し示される被写体や場所の明晰性よりも、全体の雰囲気により重点が置かれている。日本の近代主義という、厄介な、眼に見えない歴史的な化け物を現出させるために、吉村は、それに関連する場所から、自らが体感する雰囲気を差し出すような写真を目指したのである。雰囲気と作者の存在が一体化するとき、真性に作家の表現となりうる。その理想的な合一は、傲慢な表現への意志からは生まれない。自負心を滅却し、無心の状態で合一できたときに実現される…この葉書に記された引用文は、吉村が目指した写真表現のありかたを自戒もこめて暗示したものであると思われる。
『SPIN』
この葉書が作成された1999年の年末、吉村は、初めての写真集『SPIN』を新宿のギャラリーMOLEが写真家シリーズとして発行していた「MOLE UNIT photographic magazine No.9」として発表する。これは、吉村が『闇の呼ぶ声』で開眼した写真のテーマと方法をさらに純化して追求した作品であった。25点の写真からなる写真集である。普通の写真集には、写真についての理解を促すためのキャプションや文章がどこかに付されているが、この写真集には、その類いの言葉は切り詰められている。別刷りで一葉、挟み込まれた、SPINという題名の文章(北折智子執筆)のみが手がかりである。北折の文章には、デュシャンの作品についての言及しながら、本作品で吉村が行った写真行為を形容したと思われる暗示的な言葉がある。「…薮の中、遠目に見えるのは滝ならぬ塔である。きりもみ落下した(スピン)したラプンツェール。救出不能の茨姫、塔*権力*父なるもの*男根崇拝 弾痕? 足がもつれて近づけない。…」また、セザンヌがサント・ヴィクトワール山を描く様を吉村の写真行為になぞらえた下りがある。
「…サント・ヴィクトワール山を描きまくった晩年のセザンヌみちくなにもかも、ぶれて見えはじめるのは。足早の接近はいつしか螺旋(スピン)をえがき旋回する。」
タイトルの「SPIN」は、その内容の理解の手がかりを与えてくれる言葉ではなく、この作品を通観して感じ取られる、写真家としての動きの特徴を形容したもので、一種の記号と化している。掲載された写真が何を巡ってのものであるかという、観る方が求めたくなる、被写体の理解のための手がかりは、徹底的に排除されており、読者を突き放しているかのようである。この設えが意図的なものであることは確かであり、イメージそのものを純粋に提示しようとする吉村の姿勢が見えてくる。概念的な理解をあえて排することで、そこに収められた写真が放つ、異様とも言える「雰囲気」はいや増しに増し、写真集全体を支配し、観る者を圧倒する。
『SPIN』は、荒れ地の背景に微かにぼんやりと見える高い塔を繰り返し撮った写真で始まる。その塔は、旧日本海軍が、1918年から4年をかけて長崎県佐世保市針尾中町に建設した針尾無線電信塔である。三本の電信塔が、今日の地理で言うと、テーマパーク「ハウステンボス」の近くの丘に聳えている。最大の高さが、137mにもなる巨大な電信塔である。海外での支配力の拡大を視野に入れ、中国大陸、東南アジア、南太平洋方面へと艦船部隊を展開させることを狙っていた日本海軍は、遠方の部隊との通信を行う施設としてこれらの電信塔を建設した。電波の到達距離を延ばすためには当時の技術では巨大な電信塔が必要であった。太平洋戦争開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃命令の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」はこの電信塔から発信されたという説もある。戦後、取り壊しが検討されたが、巨額の費用がかかることから断念され、無用となった今もその姿を残している。日本近代の海外侵攻への意志を象徴する軍事史跡である。
『SPIN』の構成をさらに見てみよう。電信塔を眺めるやや遠方のショットを経て、ためつすがめつしながら、次第に近づいて行き、塔の直下から見上る場所まで進んで撮影した写真へと至る。その直後に頭蓋骨を含めた人骨が散乱している暴力的な写真が突然現れる。これは写真集のほぼ中間、折り返しの部分にあたる。中国の撫順郊外にある平頂山にある日本陸軍による民間人虐殺の跡を撮影したものである。その後、電信塔の関連施設の内部で撮った断片的な写真を織り交ぜながら、施設を離れ、塔から次第に引いていき、再び、遠目に電信塔を眺める写真が現れ、最後には、施設内の壁面に力強く描かれた、十字に交差する印象的な太い矢印の写真が現れる。その写真の上の部分には、「通信隊」と書かれた文字の断片がかろうじて見え、撮られているのが通信施設であることが暗示されている。さらに、裏表紙には、頭蓋骨のクローズアップが配されている。
ところで、『SPIN』の発想の元となったと吉村が述べた絵画がある。ピーテル・ブリューゲルの「バベルの塔」(1563年)と「死の勝利」(1562年頃)である。吉村の中では、帝国日本のアジア制覇の野望の象徴でもある巨大な電信塔のイメージは、旧約聖書に記された、留まることを知らない人間の欲望から生まれた巨大塔の建設とその崩壊の物語を主題にした前者の絵画のテーマに連なっていると感じられたのであった。また、日本陸軍による民間人大量虐殺の史跡のイメージは、広大な地上を覆っている死屍累々の風景を描いた後者の絵画の一部を拡大したものであるかのようにも見える。人間の欲望、傲慢さ、技術への過信、それらがもたらす人間自身への厳罰…といった普遍的な物語を、吉村は、自分の作品に重ね合わせていたようである。
前作の「闇の呼ぶ声」と比べてみよう。「闇の呼ぶ声」で見られた主題となるモノのイメージを微妙にずらしながら繰り返し提示する方法が『SPIN』でも取られており、そのモノの意味を何度も問いかけるそぶりを感じさせる視線の動きがここにも見られる。主題となるモノは、いずれも、日本近代が国家の勢力を対外的に拡大する過程で生まれた史跡である点で共通しているが、『SPIN』では、近代化を急ぐ帝国日本の対外進出の野望の中で生まれた、科学技術と密接に結びついた場所への批判的なまなざしという新たな要素が加わる。佐世保にある巨大な電信塔は、アジアにおける自らの支配地域を拡大するために、1922年の設立時には、当時の通信技術と建設技術の粋を集めた最新鋭の施設であったが、もともと長波用の通信塔として設計されていたため、通信技術が短波へと急速に移行するなかで、太平洋戦争期には、すでに通信施設としては旧態化していた。これは、大艦巨砲主義を理想として、日本の造船技術と軍事技術の粋を集めて造られた巨大戦艦大和が、航空機が海戦での戦術上の重要度を増すという時代の変化に取り残され、さしたる戦果を上げられないままに、沖縄での戦闘に特攻出撃を行い、その途上で撃沈されて海の藻屑に化したという命運のあり方と通じるところがある。『SPIN』に見られる日本軍と科学技術の関わりへと向けられた視点は、その直後に発表した作品『新物語』でさらに拡張されることになった。
『SPIN』が出版された1999年は、吉村の世界観に大きな影響を与えたベルリンの壁崩壊の10周年にあたっていた。東西冷戦の終結により、社会主義の「大きな物語」は崩れ落ち、世界があらためて一つとなるかに思われた。しかし、事態はそう単純ではなく、ひとつの世界という幻想は儚くも砕かれ、より複雑化していった。たとえば、壁崩壊の直後の1990年には唯一の超大国となったアメリカが中心となってイラクとの湾岸戦争が勃発するなど、新たな亀裂が世界に走り始めた。新たな火種が世界各地で燃え始める一方で、旧体制でかろうじて保持されていた確固とした社会の指針に替わる「新たな物語」は到来せず、社会的な混沌が一気に広がっていった時期だと言えよう。日本では、1991年にバブル経済が崩壊し出口の見えない不況に突入し、戦後、経験したことのない経済的・社会的な低迷・停滞期が訪れた。そんな中、1995年には、阪神・淡路大震災が起こり現代の都市文明の脆弱さが露呈されるとともにカルト宗教集団、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こるなど、日本社会を大きく震撼させた。後に「失われた10年」と形容されることもある90年代であった。他方、1995年頃からインターネットの普及が始まり、今日に連なるグローバル・コミュニケーション社会の幕が上がった。それは、新たな社会の到来を予感させたが、かつての「大きな物語」に替わる物語を招き寄せる力とはなり得ず、むしろ、膨大な情報の共有化を促進することで価値観の多様性を普く浸透させる力となり、相対的な世界観の形成へと向かう推進力となったと言えよう。つまり、「新たな物語」を生成させるというより、現実には「物語」の解体ないしは喪失へと向かっていった。1990年代初頭に、日本のアジア侵攻の歴史的痕跡に眼を向け、その意味を独自の視点と距離感で問い直す作品を発表するようになった吉村の作家としての大きな方向転換の根底には、壁崩壊後に到来した時代のこうした潮流に触れ合っていたと見ることができるだろう。
「新物語」
20世紀最後の年となる2000年の冒頭に、吉村は、新作を発表した。「新物語」と名付けられたその作品は、川崎市市民ミュージアムで開催された、4つの写真展から成る一年間の連続写真展「現代写真の母型」のフィナーレを飾る二人展「鈴木理策/吉村朗」で発表された。この展示で、企画者が意図したテーマは、「歴史的な時間に現代の写真家はどのようにアプローチしているのか」というもので、この観点から注目すべき作品を発表している現代の写真家として二人が選ばれた。吉村と一緒に展示を行った鈴木理策は、1998年に日本人の信仰をテーマに独自の写真的アプローチを行った写真集『KUMANO』を発表して高い評価を得ていた。この展覧会で、鈴木は、新作「瀧を見に行く」を発表した。
「新物語」は、先行した「闇の呼ぶ声」で吉村が切り開いた写真のビジョンと方法を出発点にしながら、新たな内容と手法に大胆に取り組んだ意欲作であった。
全体の構成は、モノクロの部分とカラーの部分からなっており、大きな転回を見せた「闇の呼ぶ声」以降の作品のなかでカラー作品が初めて入ってきた。
展示のスタートはモノクロの部分である。30点ほどの作品の中心となるのは『SPIN』で取り上げた旧日本海軍通信隊の巨大電信塔とその施設内の写真である。それに「闇の呼ぶ声」で取り上げた西大門刑務所の内部の写真、西大門独立公園の写真、そして「分水嶺」で取り上げた板門店ツアーの写真、『SPIN』にも収められた中国における日本軍による民間人虐殺跡の人骨の写真など、一連の帝国日本の支配と侵略行為に関わる痕跡を捉えた写真が加わっていた。すべて縦位置で、全紙(16インチ×20インチ)サイズのモノクロ写真が黒い額に収められて展示室内に一列に並べられた。整然としながらも、緊張感に満ちた展示であった。
モノクロの部分からカラーの部分に移る中間部分に、板門店に関連する小降りのモノクロ写真とカラー写真が9点ほど、互いに接する形でピンで留める形でかためて展示されており、それに続いて、吉村がワープロで打った「連想による単語の羅列」というタイトルの文章が掲示され、モノクロ部分からの展開部となっていた(その時の文章は、残念ながら見つかっていない)。
それ以降は、すべてカラーの写真となる。カラー部分の作品は、ネガカラーをデータ化してインクジェットプリンターで出力したA3サイズの写真で、点数的にはモノクロの倍ほどあるが、展示の仕方はテーマごとにプリントを互いに余白なくまとめて留める形をとったので壁面スペースは、ほぼ、半々のバランスであった。カラーの部分は、三つのパートから成っていた。
最初に、風船爆弾の展示施設で撮影したと思われる和紙で作られた気球部分と説明パネルのクローズアップが来る。太平洋戦争末期に、日本陸軍が神奈川県川崎市の陸軍登戸研究所で開発された後、実用化され、東北から九州に及ぶ各地で制作された。一宮、大津、勿来の打上げ基地からアメリカ本土に向け9300発が放たれた。アメリカは、悪名高き陸軍の研究機関、731部隊が開発した細菌兵器が搭載されることを危惧していたが、陸軍は報復を恐れて実際の投入はなかった。次第に圧倒的な国力の差を目の当たりにし、形勢挽回のために当時の科学技術を駆使して独自の新兵器開発に突き進んだ帝国日本軍の野望の一端を伝える史跡である。『SPIN』で示された科学技術と帝国日本軍の野望の関係を問う姿勢がここにも示されている。
その次に、臨海事故を起こした直後の東海村の原子力施設周辺を撮影した写真が来る。帝国日本の侵略の痕跡に向けられてきたレンズが、突然、現代の社会問題化した場所に向けられていた。その場面の転換は、それまでの歴史的な流れに沿って見ていた者にとって、あまりにも唐突で、大きな衝撃と混乱を引き起こした。いったい、この作家は、何を見ているのか?何を考えているのか?そうした問いの誘発こそ、まさに、本作品で吉村が狙ったことであった。
1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工施設内で臨海事故が発生し、2名の死亡者を含め多数の事故被爆者を出した。作業員の決死の作業で、連鎖反応を止めることに成功したが、あわやという危険極まりない原発事故であり、国際的にも波紋を呼び、原発の安全性が問われた。吉村は、その直後の10月に現地に入り、事故を起こした工場周辺で撮影している。吉村は、この撮影について、次のように語っている。
「こういう事件は(日本の戦争と)連続していると思うんです。近代化の中で一気に詰め込みすぎて、それをマニュアル化して、簡単にして、さらに無視しちゃったみたいな。そういうところが太平洋戦争と本質的には似ている。…」
吉村は、東海村の原発臨海事故を、日本が仕掛けた太平洋戦争と地続きの問題として捉えていたのである。日本が、近代国家としての繁栄を目指し、対外的な圧力と支配を強めるなかで、さまざまな科学技術が軍事に積極的に利用されてきた…上対馬の巨大砲台、佐世保の巨大電波塔、戦艦大和、特攻ロケット桜花、毒ガス兵器、風船爆弾などその例は枚挙のいとまがない。国家が方針として進める科学技術の研究開発が、いったん走り出し、繁栄と勝利のための方程式に絶対必要なものとして喧伝されると、その後、出来上がった施設や兵器に欠陥や時代錯誤が露見されるようになっても、往々にして黙殺され、あるいは見て見ぬ振りという態度で黙認され、止めることができないままに暴走し、場合によっては自壊していく。太平洋戦争期に日本の近代主義が見せた科学技術への盲進は、21世紀を迎えようとする時期に至ってもしたたかに生き抜いてきたとも言えよう。吉村は、恐るべき原発事故に、現在も生き続ける太平洋戦争期の国家精神の負の痕跡を嗅ぎとり、被曝を恐れずに駆けつけ、今もそこにある危機としてレンズの眼で指し示したのだった。
生憎、通常の写真は漏れ出した放射線を写し留めることができない。吉村は、ソウルで西大門刑務所を撮ったのと同様の身ぶりで、工場の外観と建物や敷地の合間をためつすがめつ、覗き見し、回り込みながら繰り返し提示する。その中で起こった事故に関する視覚情報は、テレビ報道の断片的な映像以外では得ることができない。現場はすぐ眼の前にあるのに、ベールに覆われたまま近づくことができない。その苛立ちと原発への問いかけが、作品から立ち上っていた。
三番目のコーナーでは、再び、大きくシーンが変わりり、見るひとは38度線の周辺地帯へといわば強制的にトリップさせられる。38度線を巡る写真は、すでに『分水嶺』で重要な役割を果たしていた。大きく異なるのは、写真がモノクロではなくカラーである点である。吉村はこう述べている。
「いままで白黒でやっていた手法をカラーで、と思ったのです。やりつくされているじゃないですか。だから新しいことをやろうとしてもだめなんで、何度も反芻するしかない。自分の中で、同じことを繰り返して自分のものにするしかないかなと思っているんです。でもなぜかカラーには愛着が生まれてこないですよね。愛着はないほうがいいのかもしれない。別の解釈ができたりするから」
分断の象徴である鉄条網が巡らされた地域の足下の地面に向けたショットから遠方を望むショット、空に向けられたショットなどが絡み合うなかで、現場を監視する兵士の断片的な写真や兵士達の監視画像などがインサートされている。暗室で自らのイメージを追求した結果として生まれるモノクロの「魂」の入った表現とは異なり、「愛着」の見られないカラーでは、同じく38度線をテーマにした「分水嶺」で見られた歴史的な重みの感覚は薄まり、生々しく、ややキッチュな感覚すら現れている。1990年代末は、北朝鮮が、金日成亡き後、悪化した経済の立て直しを図って、金正日新体制のもとで、経済支援を引き出すために多くの国家と相次いで国交樹立を行うなど、同国を巡る国際関係の緊張が緩んだ時期にあたる。そうした当時の国際情勢も反映されているようにも見える。とはいえ、南北を分断する38度線は、堅固なもので崩壊の兆しはまだ見えなかった。
「新物語」は、全体として見るとどのような作品であったと見るべきだろうか。この作品は、西欧列強に肩を並べる強国となるべくアジアでの勢力拡大を目指した帝国日本の軍事的痕跡の写真、東海村の写真、そして38度線の写真の三つのグループから構成されている。一見、唐突で強引な組み合わせに思われるが、吉村のなかでは、いずれも、西欧的近代化に基づく日本の国家的な拡張の意志から発露した光景としてひとつに纏められるべき作品であった。問いの射程は、戦争にまつわる日本の近代化のありかたのみでなく、そこにルーツを持って蠢く現代社会の欲望と科学技術の関係にまで及ぶことを示した点で吉村の作品の展開に新たな様相を加えた。
「新物語」は、ユニークな内容構成と展示方法によって、展示を見た評論家や同時代の写真家の中に少なからぬ反響を引き起こした。それは、良くも悪くも「反応」を引き起こす問題作であった。ひとつの展示空間に、場所も時代も異質な作品群が複数組み込まれ、いわば暴力的にぶつけられており、イメージの行き着く先は受け止める人間次第で、見る者の意識を宙づりにし流動的な状態に留め置くため、ひとによっては不安を、あるいは場合によっては怒りを引き起こしても不思議ではなかった。『SPIN』で見られた、見る人を引きつけながらも容易には近寄ることを許さないある種の拒否感は、ここでも引き継がれており、見る者に優しく開かれている作品ではけしてなかった。
写真家、谷口雅は、GRAPHICATION誌で本展覧会を取り上げ、「政治を主題とするヌーヴォー・ロマン」というタイトルで次のように論評している。
「…楕円形の会場の内側にモノクロの写真を配し、外周にインク・ジェット出力によるプリント(主としてカラー)を並べている。内側は縦位置の写真が一直線に並ぶ。吉村朗は、現在の移住地である関東周辺と、生まれ育った北九州、さらには朝鮮半島に、太平洋戦争が遺したさまざまな痕跡を探し求めてゆく。しかし、いまやそれら構造物は時間の経過のなかで風化や剝離によって変形し、すでにそれがなにを目的として設置されたかを見分けることさえできない、ただ古いだけのコンクリートの塊や鉄柵となっている。吉村朗はそうした風化の跡に、過去の事件の傷跡を重ねて視ようとする。あるいは、矢印や煙突といった鋭角なカタチが傷つけることを連想させ、カギ型に交差する力強い線を画面に配置することで、かつてそこに働いた巨大な歪んだ力の傷跡を暗示する。また同一の被写体を繰り返し並べることによって、イメージをフラッシュバックさせる。そうしたいくちもの手法を積み重ねることによって、過ぎ去った事実としての物語を再現するのではなく、〈過去の痕跡〉を写真=画像としてねつ造し、あたらしい物語を語ってゆく。精緻な結像を回避するブレやぼけといった画像の不鮮明さによって、〈見えないこと〉〈了解不可能性〉を見る者のイメージの誘導口とし、視線と思考の向かうべき方向を、写された具体的対象でなく、観念の領域へとねじ曲げる。 しかしながら、戦争という力の世界、政治、権力、そうした巨大な力の歪みが生み出した惨劇を射程にはおさめていても、吉村朗のアプローチはけっしてまっとうな政治や権力についての考察ではありえないだろう。吉村朗がたくらむものは、あくまでも「新物語」なのである。それはすでに、ドキュメンタリーの枠を超え、フィクションとして描き出された「ヌーヴォー・ロマン」なのである。…」
二人展「鈴木理策/吉村朗」は、気鋭の写真家二人の最新作によるセッションという点でも注目された。「瀧を見に行く」を発表した鈴木理策は、会期中に第25回木村伊兵衛写真賞受賞の知らせを受け取り、それを記念して、本展覧会は、当初の終了日を変更して4月9日まで延長された。吉村朗は、生涯を通じて、主要な写真賞を受賞することはなかったが、「新物語」は彼の代表作のひとつとして、一部の評論家と写真家の記憶に深く刻まれることになった。
Ⅲ. ポスト新物語 / 2001~2006
「新物語」を発表した川崎での二人展の直後の5月、吉村は、第一回韓日フォトビエンナーレに参加した。この企画には、韓国側から12人、日本側から12人の写真家が招待された。日本側には、細江英公が特別参加作家として入り、細江以外は若手の写真家が中心で、その中には、鈴木理策、金村修、野村佐紀子などが名も見られる。日韓を巡る不幸な歴史的背景があるにも関わらず、戦争の歴史に独自のアプローチを行っていた吉村が選ばれてソウルで展示されたのは、韓国における日本文化の理解と開放の深化を示していた。さらに、これをきっかけに、吉村は21世紀に入った2001年にソウルのGallery Luxで個展を開催し、新作「ジェノグラム」を発表した。
「ジェノグラム」
「ジェノグラム」は、日本では、同年の晩秋に開催された川崎市市民ミュージアムでのグループ展「現代写真の動向 2001 outer inter」の中で、「ジェノグラム/暗転」として発表された。問題作であった「新物語」の後、吉村の作品がどのような展開を見せるのかが注目された。
「ジェノグラム/暗転」でも、アジアでの勢力拡大を目指した帝国日本軍の軍事的痕跡を捉えるという姿勢は貫かれている。関連する場所として、いくつかの歴史的地点が新たに加わっている。たとえば、タイとミャンマーの間に建設された泰緬連接鉄道に関連する写真がある。現在の同鉄道の終点があるタイ・ナムトックで撮影した華僑の男の肖像、アルヒル桟道橋を通過する列車からの風景などである。この鉄道は、日本軍が、建設工事のために、連合国捕虜ならびに近隣の諸国の労働者を強制的に徴用して動員し、難工事のために膨大な数の犠牲者を出したことで知られる。東京都内に現在も残る関連地点として、新宿区にある旧大本営の地下壕、世田谷区にある旧日本陸軍の射撃場跡で撮られた写真も加わる。ソウルでの旧朝鮮乃木神社社務所門柱、朝鮮戦争で攻撃された旧朝鮮労働党党舎、板門店の南北会談所等、韓国・朝鮮での事跡は、本作品でも重要な位置を占めていた。
一見、『闇の呼ぶ声』以来の作品との連続性が目立つが、吉村は、新作では常にそうであったように、実験的な要素をいくつか忍び込ませ新たな展開を図っている。そのひとつに、日の丸の旗が路上で無惨に扱われている様子など韓国の路上で繰り広げられている反日運動の痕跡を捉えた作品がある。過去ではなくその時点でのリアルな痕跡が提示され、時間軸を現在にまで延ばしている。一方で、過去の歴史に対して、新たな距離感を取ろうという姿勢が現れている。本物と見分けがつかない板門店の映画のセットの写真、ドラマ用に作られた、戦後の日本の路上にあった占領軍向けの実物そっくりの交通標識の写真など、歴史的な場所のフェイクを撮影した写真が組み込まれているのである。展覧会カタログの紙面では、板門店(映画のセット)の写真は二点横位置に連続して並べられいるが、その間には赤い色面が挟まれている。交通標識は、周囲を切り抜いたイメージが用いられ、切り抜きで欠損した部分もそのまま画像として提示されているなど、写真の画像の取り扱いについて、それまでのオーソドックスなやり方とは異なる創作的な扱いが見られる。さらに、内容的に重要な変化がある。吉村の個人史に関わる歴史的な場所が組み込まれているのである。街角にある、古びた建物の一角を撮った一点の写真がある。かつて何か形のある建造物があって、それが破壊され取り除かれた痕跡が写されている。「ソウル市鐘路区孝悌洞19番地」と住所で同定されたその場所は、「ここに祖父の家があった」と記される地点であった。この作品の発表の前年に「新物語」について吉村が受けたインタビューの中で、彼は「戦争の歴史にこだわるのは自分の"ファミリー・ヒストリー"からきているのです」と述べていた。吉村の父の祖父は朝鮮総督府の警察の官吏であり、吉村の祖父は、現地で開業した医師であった。自らの個人史との関わりのなかで、日本近代の歪みを問うという姿勢を、作品において直接的に指し示した初めて写真であった。小さな変化に見えたが、その後の吉村の作品のドラスティックな展開から振り返ると、新たな方向に向かうための蝶番となる写真であったと言えるかもしれない。タイトルにある「ジェノグラム」は「家系図」を意味しており、吉村の関心が自身も含めた歴史の内奥へとシフトしようとする予兆がこの作品には感じられる。その関心の深化は、次に発表されることになる新作「u-se-mo-no」で大胆に展開されることになった。
「u-se-mo-no」
「新物語」の発表から5年経った2004年、吉村は新たな動きを見せた。「u-se-mo-no」の発表である。その年の5月、吉村朗の新作を知らせる案内葉書が知人や関係者のもとに送られてきた。新宿にあるギャラリー、photographers' gallery が運営するスペース、「イカズチ」での同作品の展覧会開催の告知であった。葉書は、定形外の大きめのサイズで、表面には、ややセピアに退色した古い写真が大きく置かれている。写真の中央には、花輪を冠った若く麗しき乙女の立ち姿がある。様々な花が咲き乱れた庭の中に置かれた白い台の上に、まるで彫像のように、おとぎ話の挿絵に見られるような白っぽいロングドレスを纏ってすっくと立ち尽くしている。足元に目をやると、洋装であるのに鼻緒の付いた草履を履いているのが見える。背後には学校のような大きな建物が控え、彼女のまなざしは宙をさまようようにやや遠くの方を静かに眺めやっている。この写真の中央には、展覧会タイトルの「u-se-mo-no」が、手描きのくせのある文字で配されている。
侵略の痕跡を追求していた吉村の作風とは趣きを異にしており、何事かと思い表面を裏返すと、葉書の左側に、やや長めの文章が綴られていた。
「あたしは立っている この屋敷の前に ずーっと 今日は何月何日ですか?通りを行き交う人になにを訪ねても答えてくれない ここからあたしが飛び降りた窓をぼんやりながめて気付いたのは、あの窓の縁がまるで額縁みたいに日を受けて光ることだ そういえば、この屋敷には離屋(はなれ)につづく大きな渡り廊下があったはずだが気が付かないうちになくなってしまった 出入りする大勢の人足も、川で牛や馬を洗うお百姓も何処江へいったのか まるでわからない あたしが跳んだあの光る窓 お義母さまが あなた、そんなに御不満なら好きにおやり うちのお腹に足を乗せて休んでもよかですよ などと言ったのだ だからあたしはやったのだ あたしの思い出は夫の顔も定かではないぐらいにとぎれとぎれだが、それでも中の良い姉のことだけは憶えている というのは、このごろ姉と自称するお婆さんが時おり訪ねて来てあたしをつれていこうとするのだが、姉は、あたしと歳が離れているとはいうものの、干支一回り上なだけだからあんなお婆さんのわけがない 姉があんなお婆さんのわけがないんだ 夫は何処にいったのだろう 屋敷にはあたしの知っている人はいなくなった 今ここに住んでいるのは見知らぬ家族だが、そのなかの一番小さい娘だけはあたしのことがわかるようで、よく隠れんぼうなどをして遊んだりするものだが、 そんな時にはいつも侍姿の男が現れて おらっ あん女中と話ししてはいけんばい などと恐い顔であたしとその娘を 交互に睨みつけてその娘を屋敷の中につれ入ってします あたしはもう夫の顔さえ定かに憶えてない 今日は何月何日なんだろう …ああ、記憶が失せて行く… 」
古びた謎めいた写真と関係のある文章であることは明らかであった。展示場にはこれとは別のテクストと写真のキャプションが置いてあった。それによると、女性は、吉村の祖母の歳の離れた妹であり、本人にとっては大叔母にあたる。大叔母は、福岡のミッションスクール、福岡女学院で学んだ。葉書の写真は、同校の創立記念日に行われる恒例の五月の女王祭の女王に選ばれた時に撮られたものである。撮影された昭和7年は、満州国の建国が宣言された年でもあった。この葉書は、通常の展覧会案内の域を超えており、作品の一部として考えた方が納得がいく内容であった。
引用した文章は、この大叔母のモノローグの形を取っている。話者と想定された大叔母は、すでにこの世の者ではなく、いわば霊として浮遊し、現実の世界を眺めながら自分の人生の断片について述懐している風である。そこから、大叔母の身の上に関するいくつかのことが浮かび上がってくる…姑との折り合いが悪かったらしいこと、離屋もある大きな屋敷に住んでいたこと、どうやら本人はその窓から飛び降りて自らの命を絶ったらしいこと、吉村の祖母ににあたる姉とは仲睦まじかったこと、結婚した夫の思い出は薄いこと…述懐の最後には、記憶は定かではなく、さまざまな出来事が忘却の彼方へと失われていく様が嘆息を交えて語られる。「ウセモノ」の所以である。
「u-se-mo-no」の展示は、次のようなものであった。展示場の入り口には、頭蓋骨のレントゲン写真(正面向きと横向きが一組となっている)が二点展示してある。さらに、2001年12 月に東シナ海の九州南西海域で起こった、海上保安庁巡視船「あまみ」による不審船(北朝鮮工作艇)の追跡と交戦の事件にまつわる写真が展示してあった…現場海域から引き上げられた北朝鮮工作艇の写真と銃撃を受けた「あまみ」の艦橋部分の弾痕跡の写真である。この部分には「北朝鮮工作員の独語」のパネルも掲示してあった(パネルの原稿は、現在、発見されていない)。これらに、吉村家の家族アルバムの中から選ばれた、五月の女王を含む、大叔母の少女時代から結婚後の写真などが机の上に置かれていた。
「u-se-mo-no」では、一見、直接的には関連が見えないようないくつかのテーマをひとつの展示空間に織り込んで全体を構成するという「新物語」で試みられた方法が発展的に継承されている。北朝鮮の工作艇の事件は、吉村にとって、歴史的に遠くなったとは言え南北朝鮮の分断が日本による朝鮮支配の痕跡である以上、彼が問いかけてきた日本近代の歴史の暗黒面を照射する事象として眼を向けざるをえなかった。「新物語」と大きく異なるのは、「ジェノグラム」で予兆として見えてきた、日本の近代化を巡って自身のルーツとなる家族史を問いかけるというまなざしが、前面に出て来た点である。吉村は、大叔母を巡るさまざまな物語を、西欧の文化を受け入れ、近代化を志向した日本の隆盛と頓挫という歴史の物語とぶつけることで生じる不協音と共鳴音を交響させることをこの展示では目論んでいたと思われる。唐突に置かれたように見える「骸骨」のレントゲン写真は、「新物語」に挿入された骸骨の写真と同様に、死のイメージを招き入れるが、そこでは日本軍がもたらした死の実態が具体的に指し示されたのに対し、ここでは、投身したとされる大叔母と交戦した工作艇乗務員の死を巡る想像力を惹起する契機となり、死のイメージを通奏低音的な響きとして展示全体に浸透させる仕掛けとなっていたと思われる。
この作品の制作過程において特筆すべき点が二つある。ひとつは、自分が撮影したのではないアルバムの写真を作品の素材とし、場合によってはそのイメージにコンピュータで加工して提示したことである。自身が撮影した写真のみを作品とするのではないという姿勢を明確にしたのである。さらに特徴的なのは、案内葉書の裏のテクストに見られるように、写真に、事実を下敷きにしながら自身が編んだ創作的なテクストを積極的に付加し、作品の重要な構成要素に組み込んだことである。これによって、「新物語」の展評でいみじくも谷口雅が記していた「ドキュメンタリーの枠を超え、フィクションとして描き出された「ヌーヴォー・ロマン」」という作品の方向性がさらに一歩、大胆に推し進められていた。
「u-se-mo-no」は、吉村朗にとって「新物語」に続いて、大きな展開を見せた意欲作であった。この作品について論じた文章は、「新物語」と比べるとはるかに少ない。そんな中で、評論家の佐野寛のテクストは、この展覧会の本質に肉迫し、吉村が提起した写真表現の可能性と問題の射程について詳述している点で貴重である。
「私が思うに吉村朗は、「謎」あるいは「謎の痕跡」を人に見せる写真家である。誰もがすぐ「分かる」写真を見せるなどという、人間の想像力を無視するようなマネはしない。もちろん、吉村は(間違いなく)、他人のではなく自分の楽しみのために、「謎の痕跡」を撮ったり、その謎に喚起された「謎の文章」を綴ったりするのだ。そしてその「謎づくり」の過程で、頭の中に沸き上がるイメージを鑑賞し、それを外在化させて、真っ先にその「アリスの鏡」に飛び込み「想像遊び」を楽しむ。吉村はそのような「芸術家の特権」を思う様行使して、写真家としての人生を思い通り生きている(ように思える)。
ところで、吉村が創る「アリスの鏡」は難解だと言われるらしい。経済社会の商品である作品のように誰もが感動するハイパーリアルなイメージとして提示させることがないからだろう。それはたとえばオノ・ヨーコの「三楽章の絵」のように提示されるのだ。
三楽章の絵 / キャンバスに毎日水をやる。/一楽章 /芽を出す迄 / 二楽章 / つたがキャンバスをおおう迄 / 三楽章 / つたが枯れる迄(1964年の楽譜バージョン)
このオノ・ヨーコの初期作品は初め、右の言葉が万年筆で書かれた紙として提示された。見手は「想像しなさい」(imaging)と暗に促される。そして自分の脳裏に自分の「三楽章の絵」を描き出す。右の言葉は、いわば音楽の楽譜なのだ。見手はその楽譜を想像力で演奏する。 同様に吉村が先日開かれたイカヅチでの展覧会「USEMONO」(吉村朗写真展「u-se-mo-no」、二〇〇四年五月、イカヅチ)で提示した写真と言葉も(吉村自身を含め)それを見る者が自分の頭で演奏する「楽譜」なのだ。…」(「吉村朗のタイムマシーン」)
ところで、イカズチでの「u-se-mo-no」の展示は、この作品の全体像を示すものではなかったと思われる。というのは、吉村が遺した、自らの作品を2004年にまとめたCD-ROM があるが、その内容から推測して、本人が構想していた「小さな写真集」の元となる内容であることが判明し、そこに「u-se-mo-no」に関連する作品と資料群がまとめられていたからである。
その中には、「Akira Yoshimura 1994-2001」 というフォルダと「Recent Works」というフォルダの二つがある。前者には、「闇の呼ぶ声」から「ジェノグラム」に至る日本の侵略戦争の痕跡をテーマにした作品群から選択した作品26点が収められている(この部分は、作家本人が選択して構成した作品として本書に載録されている)。後者には、「u-se-mo-no」で展示された作品の系統の作品である五月の女王、北朝鮮工作艇および遺留品等15点、関連する「参考資料」とされた写真が30点収められている(この部分も、本書に載録した)。「u-se-mo-no」に関連する後者のフォルダには、イカズチで展示されなかったものが含まれていた。「参考資料」の中には、大叔母の写真に加え、その姉、つまり吉村の祖母の写真も多数含まれる。また、吉村の祖父を始め少なからぬ親類縁者が住んで仕事をしていた、戦前の韓国の京城(現ソウル)市の全景を収めた写真の複写もあり、自らの家族史の痕跡を示す写真の傾向がより強く出ている。「USEMONO」で作家が目指した作品の方向性をより明確に示す資料として貴重である。
このCD-ROMを元に構想した「小写真集」に解説の文章を書いてもらうために、吉村が、『歴史とトラウマ』の著者、下河辺美智子宛に送ったファックスの文面が残っている。
「下河辺美智子さま
初めまして。わたしは吉村朗(よしむら あきら/写真家)と申します。
下河辺先生の{歴史とトラウマ}をかって拝読いたしました。 私は、韓国や日本の戦跡などを撮影している写真家ですが、韓国(系)人ではありません。その逆の入植者達の家系です。そのことを突然知った、かっては仲良しの韓国系帰化人に少年時代にずいぶんと苛められた体験があります。 私の家系が入植者だと知る前までは、彼とは仲良しでした。突然このような個人史になり申し訳ありません。実は、小さな写真集を作るつもりでおりまして、下河辺先生に3000字前後の解題分を寄稿していただきたいのです。… ぜひこれから作る本の構成になる写真をご覧いただけないでしょうか?…」
「u-se-mo-no」で発表された作品とその系統の作品は、『SPIN』に続く、二冊目の「写真集」の主要な部分となるはずだったが、出版の計画は実現しなかった。本書に収められた「Akira Yoshimura 1994-2001」と「Recent Works」は、この未完の写真集の構想の断片である。
吉村は、2012年6月2日に53歳の誕生日の前日にこの世を去った。その間に、合計16回の個展を開催している。「u-se-mo-no」は、14回目の個展であり、その後、2006年までに2回の個展を行っている。吉村は、個展ごとに新たなアイデアや試みを組み入れて進んできたが、とりわけ、最後の2回は、実験的な色彩がとりわけ強い展示であった。
「夜驚 ORDER」
2005年春に再春館ギャラリーで、吉村は、「夜驚 ORDER」を開催した。これは、「u-se-mo-no」で開かれた、自らのルーツに関する古い写真と日本の侵略戦争に由来する場所や人のイメージを合わせて提示する方法をさらに踏み込んで追求した展覧会となった。
この作品の中心的なイメージとなる写真に、古い地球儀の写真がある。それは、吉村の祖先と思われる人物、吉村利謙(1798-1863)が、徳川斉昭の指示より制作者のひとりとして携わったもので、明治天皇の即位儀礼で使われたという解説が付けられている。「思われる」というのは、そうであるという明確な表現はされていないが、その氏名のみが太字で強調されているからであり、前作「u-se-mo-no」の作品の成り立ちを考えると、吉村家と全く無関係な人物が作品に組み込まれるのは考えられないからである。明治天皇は、即位儀礼のなかで、この地球儀を踏みつけたという新聞記事の紹介も解説で述べられている。
展示作品の内容を記述してみよう。ギャラリーの三つの壁面を使って展示は行われた。その一面には、ロールにプリントアウトされた5点の大きめの写真が横に並ぶ…英文のKISHI NOBUSUKEという名前が重ねられた横顔の画像の写真、地球儀、祖先の三人の記念写真、マン・レイの作品「コンコルド橋」の上に吉村が撮影した皇居二重橋の欄干の画像をコラージュ的に重ねた写真、記録フィルムから撮られたある兵士の画像の写真。次の壁面には、街路を捉えた横位置A3サイズの写真が整然と二段掛けで並び、最後の壁面にはより小さなサイズの縦位置の写真が五点ならび、その合間に一面の写真のキャプションをまとめたパネルと地球儀に関する歴史的な由来を詳細に記したパネルが挿入されている。全体を通して見ると、『闇を呼ぶ声』以来、吉村の作品の基調を成してきた、日本の近代主義が歴史に刻んだ負の痕跡のイメージを追求するというベクトルに加え、それまでにない強さで、吉村家のルーツに関わる歴史的なイメージを重ね合わせることで、日本の歴史のあり方とともに自身の存在のあり方を問いかけるという姿勢がより強く浮かび上がっていた。明治天皇が地球儀を踏んだという逸話は、世界を制覇するという行為の隠喩であり、その地球儀の製作に吉村の血縁者が関わり、日本の近代主義の創世の歴史に微かな痕跡を残していること、その系譜に自分が血縁的には繋がっていながら、その国家的な歴史と個人的な歴史のいずれもその意味と正当性を写真でもって問わざるをえないこと…こうした複雑な関係のイメージを、ひとつの展覧会でぶつけ合うことで爆発させ飛散させ、新たなイメージを浮かび上がらせようとする実験的な展覧会であったと言えよう。
ちなみに、タイトルの日本語「夜驚」とは「夜驚症」から取られていると思われる。夜驚症とは、睡眠中に突然起きて叫ぶなど恐怖を示す症状を特徴とする。夢とは違い、覚醒したときに本人はその行為を覚えていないことが多いと言われている。吉村の1996年の作品タイトル「闇の呼ぶ声」との関連で言えば、国の歴史と個人の歴史について問いかけ、苦悶する吉村が、朦朧とした意識の闇の中で叫んでいる姿を連想させるタイトルであった。
再春館ギャラリーのホームページでのこの展覧会の告知のコーナーで、吉村は、本展について次のようなテクストを記している。
「夜驚 ORDER 吉村朗
混沌を混沌のまま提示する在来の写真が、時に強烈な異化効果をもたらすことがあり、それが優れて写真的と見なされる場合が多いのは、時間や空間にまたがるわれわれの日常の感覚が非常に厳格な秩序によって構成されているためである。 思考をひっくり返せば、これまでの従来通りの写真こそが、むしろわれわれにとって虚構に近いものであるといえるのだが。そこで、私は写真を言語のようにもちいることがはたしてどこまで可能か?時間と空間の叙述を記憶のように再構成することがどこまで出来るのだろうか?と考えてみた。 この様な実験を通して、写真の虚構性は一体どんな風に変化するのだろうか?」
この文章は、吉村の写真に関する哲学と彼自身の写真表現の大きな転回の背景に関わる思考を示しており重要である。写真は、われわれの日常的な視覚を模していると思わせながらも、見ることの秩序立て、体制化が行われている日常的な視覚にとっては、その無差別的性格のために異化効果をもたらすことがあると言うのである。写真による無意識の領域の暴露が、20世紀の写真の歴史におけるモダニズムの写真の特質として金科玉条のごとく語られ続けて来た。その文脈のなかで、たとえば、パリの街並をひとり密かに大型カメラで撮り続けたフランスの写真家、アジェが発見され、「現代の写真の父」と称されることになった。吉村を注目すべき作家として押し上げることになった前期のストリート・スナップ作品も、その流れに連なるものであった。現実を撮っていると想定されながらも、実は、人間にとっての「現実」ではなく「現実」を超えた「現実」であるとして、西欧近代哲学が基礎づけた自我と世界という二元論の二項対立の図式のなかで、さらにこの枠組みを超えた世界を切り開くことに写真の機能と価値が新たに認められたという歴史的な流れがあった。吉村は、そうした写真を、むしろ人間にとっては「虚構」であると言いきることで、モダニズム写真の価値に見切りをつけた。そして、自らのストリートスナップ写真から毅然として決別し、その多くを廃棄したのだった。表現者としてのそれまでの道を捨て、退路を絶って新たな道を探求するなかで、写真を言葉のように用いて「新たな物語」を創出するというアイデアに行き着き、その可能性に賭けたのである。
この転回の背景には、写真自身への批判的まなざしがあったことも語られねばならない。吉村はこう語っていた。「…写真も西洋から来たものなので、うまく使いこなせないジレンマがあります。で、すぐテーマ主義みたいになっちゃう」 吉村にとっては、自らの表現手段として選んだ写真自身も、西欧の近代主義から産まれた技術であり、日本では西欧化の流れのなかで導入されたという経緯があり、侵略戦争に向かった日本の近代主義の歪みの歴史にも当然、絡み合う存在として考えられていた。自分の写真で、日本における近代主義の歴史を、自らの家系の歴史と重ね合わせながら問いかけるとともに、表現手段である写真自身も近代の所産としてそのあり方を問いかけるという二重、三重の問いかけのなかで繰り広げられた写真の仕事であった。
「夜驚 ORDER」は、野心的な作品であったが、展示に対する反応は、ほとんどなかったと言っていい。「新たな物語」の可能性を開こうとする苦闘のなかで生まれた作品であったが、凡庸なモダニズムの写真に馴れ、分かりやすく心地よい写真を求める眼にとっては、この実験的な作品は難解であり、恣意的なイメージのアマルガムとして切り捨てられるしかなかった。それまでの吉村の写真の仕事を見てきた者にとっても、提示された写真と文章から「新たな物語」を構築するには多大な想像力の作業を強いられ、見るものを容易には寄せ付けない度合いは以前にも増して高くなっていた。吉村が、作家としての孤立感と焦燥を深めたことは想像に難くない。
「夢日記」―最後の個展―
2006年の1月、千駄木にあるGALLERY IMAGOで、吉村の最後の個展となった展覧会「夢日記」が開催される。
この展覧会は、前半と後半で構成されていた。 その展示構成について、吉村の短いコメントが残されている。
「前半部は、撮影を中断している8mm映画の絵コンテのようなものだと考えて下さい。中央のコメントを境にして、後半の主題はご覧の通りの牛であります」
前半部は、明瞭ではないイメージの断片がフラッシュバックされているような構成となっていた。その構成要素には、直前作の「夜驚 ORDER」にも出ていた皇居の二重橋の欄干の写真の複写のカットが含まれている。また、香港のビルの写真や「分水嶺」に出てくる踊りながら駆け出す女性の足元のぼんやりとしたクローズアップのバリエーションが含まれるなど、「闇の呼ぶ声」以来、拘り続けた日本の侵略戦争の痕跡を巡る自身の仕事を、夢の中で振り返るような趣きがある。
後半の主題となる「牛」というのは、2000年代初頭に日本を含む世界を震え上がらせたBSE(牛海綿状脳症)問題、いわゆる狂牛病の事件のことである。吉村は、この事件からインスピレーションを得、牛のイメージを中心に据えて後半を展開している。牛の姿を直裁に捉えた写真、屠殺され解体された牛の肉の大きな塊の写真、肉を保管する檻の写真、狂牛病に冒された牛の脳細胞の切片をイメージさせる写真など一点一点の写真もあるが、一枚の写真の中にもう一枚の小さい写真を重ねて置いたコラージュの写真が多数含まれており、吉村の写真表現に新たな次元が開かれていた。吊り下げられた肉塊の奥に牛の写真が小さくコラージュされた写真、牛の頭部を捉えた写真を背景に、日本に伝承される人面牛「くだん」の古写真を中央にコラージュした写真、さらに、吊り下げられた牛肉の写真の下部に佐世保通信隊の施設に残された矢印の写真がコラージュされている写真もある。また、牛以外の動物の写真も含まれており、観る者を驚かせる。ヘビとヘビに呑み込まれて死んだ小動物の写真を合成し、その中央に滝が写った古写真を配した写真がある。ヘビの写真を入れた意図については、解釈の手がかりが残されている。この展覧会の開催を知らせる年賀葉書の宛名書きの部分に、次の文章が添えられているのである。
「コウノトリやツルをほんの少しの人しか食べない理由―コウノトリやツルが食べるヘビを恐れるかりである(S+J・ラウス「レオナルド・ダ・ヴィンチの厨房ノート」)。
この記述から推測すると、吉村は、牛の写真群にヘビの写真を入れることで、食べる者と食べられる物のありかたを文化史的な意識で取り上げようとしたことが感じられる。近代の科学主義に批判的なまなざしを向けて来た吉村にとっては、狂牛病の拡大は、食の近代化に伴い牛肉食という食文化が世界中に普及し、そのために要請された牛肉の大量生産といういわば反自然的なプロセスの中で生じてきた事故と考えられたのである。この視点は、「新物語」で示された、日本の支配地域拡大の野望を実現させるために、近代科学の技術を信仰して建設された、佐世保の巨大な通信塔に向けられたまなざし、あるいは、核施設の安全性神話を揺るがした東海村の被爆事故への視覚的なアプローチの根底に流れる吉村の近代批判の意志に連なっている。「新物語」から「夢日記」に至るまで、科学技術に支配された近現代という時代の特性、そして、科学技術を制するものが世界を支配するという政治権力と不可分に結びついた信念、その信念を現実化することによって著しく畸形化された世界像のありかたを問いかけるという吉村の姿勢は一貫していたと言えよう。「夢日記」で取り上げられた狂牛病とこれらの事象は、吉村の中では、近代の科学技術主義の負の痕跡という点で繋がっていたと思われる。
ところで、元々、ストレートな写真を得意とした吉村が、「夢日記」ではコラージュという手法を取りいれたことは特筆すべき変化であった。たとえば、吊り下げられた牛の肉塊の写真の上に日本軍の通信隊施設に描かれていた矢印の写真を重ねるなど、一見、異なる内容の画像を一つの画面でぶつけ合うことによって広がる連想の可能性を実験した。こうした作品には、さらに、香港の建物の写真、路上に描かれた動物の落書き、人間の骸骨の落書きの写真、そして自らのルーツに繋がると思われる三人の女性の古写真なども加わっており、展示全体が、こうした一見、繋がらないようなさまざまな要素を力づくで組み合わせることで構成されていた。その強引さには、作家が考える、写真表現に関する主張が込められていたと思われる。というのは、写されている物事自身の意味をそれ自身として直接繋げるのではなく、それぞれが惹起するイメージのレベルにおいて見るものが主体的に繋げて何かを紡ぎ出すこと、彼の作品がそのための起点となることを吉村は希求し夢見ていたと思われるふしが、前半部から後半部に移行する間に置かれた吉村の次のコメントから見えてくるからである。
夢日記コメント2
「絶対非演出の絶対スナップ」という言葉を使ったのはたしか土門拳で、この言葉の真意がどこにあるのかは今さら考える気もおこらないのだが、とまれ確実なのは、彼(ひとり彼だけに限らないことだが)の作品を前にする者が、思考力と想像力とを総動員させて鑑賞しなければいけない、ということである。ここが重要なことなのだが、鑑賞とはそういうものであるべきなのだ(もちろん撮影行為も同様である)。
私「この作者は、乞食の少年を撮影することにより何事を言わんとしているのか?」
肝心の作者もここのところ、つまりテーマこそが最も重要だと考えていたに違いない。(コメント終わり)
土門拳が撮った乞食の写真に代表される戦後の日本の現実を捉えた写真は、一時期、プロ、アマチュアを含めた大きな広がりを見せたが、作家の意図とは離れたところで、「乞食写真」と揶揄される安易なテーマ主義写真を大量に発生させた。吉村がここで言いたかったのは、見る者と撮る者がともに作品に向かう姿勢についてである。写真の意味と想定される何らかの一般的な解を見つけ出すというを堕落したテーマ主義の枠組みではなく、受け取る側(と作家)がその写真を起点にして「思考力と想像力を総動員させて」獲得すべきあるものこそがその本来のテーマであるという彼の考え方がここには披瀝されている。それは、吉村が、自身の作品を観る人々に対して、常に心のなかで叫んでいたことであったと思われる。インタビューの中で、吉村は次のように語り、単純なテーマ主義で写真の理解を落着させる傾向を批判している。「…写真も西洋から来たものなので、うまく使いこなせないジレンマがあります。で、すぐテーマ主義みたいになっちゃう」
吉村は、「闇の呼ぶ声」に始まる後期になって、「新物語」の展示で明確に打ち出されたように、写真と言語に関する思考を深めて制作をするようになった。「新物語」以降の作品は、写真とテクストの関係に着目しながら、"新たな物語"を浮かび上がらせるという方向性で一貫していたと言えよう。あるグループ展のトークショーの場で、吉村は、「絶対写真」という言葉を使ったことがある。この言葉は、対象を描かない絵画、無対象の絵画という抽象絵画の革命を実践したカジミール・マレーヴィチの「絶対絵画」を思い起こさせる。吉村が「絶対写真」で具体的に何を考えていたのかについては、今となっては確かめる術がないが、彼が発表した作品から、その輪郭を掴み出すことができるかもしれない。
吉村が生前に世に出した唯一の写真集『SPIN』には、彼の「絶対写真」のビジョンが感じられる。印刷された写真についての具体的な記述は一切なく、挟み込まれた、北折智子による一葉のテクスト「SPIN」には、"SPIN"という言葉が、写真集の中で展開される視点の旋回的な動きに関連することが暗示されているが、写真の内容についての言葉は希薄である。その意味で、言葉を写真から徹底的に切り離すことが意図的に行われている写真集である。ここうした事態に、写真のテーマについて述べた吉村の言葉を重ねてみると、おぼろげではあるが彼が言いたかったことが見えてくる。言語的な誘導を拒否し、安易なテーマ主義を徹底的に排除すること、そして、観る者を挑発し、「思考と想像力を総動員させる」こと、そこで浮かび上がるのが作品の内実であり、真のテーマであること。『SPIN』は、言語的要素を極力切り詰めることで「新たな物語」を生成させようとする実験的な試みであった。誤解のないように付け加えると、言語的要素の切り詰めは『SPIN』という作品での言語に対する吉村の態度のひとつであり、そのこと自体が目的ではないということである。それに対して、たとえば、「u-se-mo-no」では、言語的な要素を文章として積極的に組み入れる方法を採ることで「新たな物語」を生成させるという、言語と写真に関する別のアプローチを採っている。つまり、彼にとっての「絶対写真」とは、"新たな物語"を創出する写真という意味であったのではないかと推察されるのである。
吉村が挑んだ「新たな物語」のための写真―それは、まさに実験であった。実験であるがゆえに、成功もあれば、失敗もある。失敗があるから、成功もある。吉村には、成功のためにこうしようという思考回路はなく、常に実験精神に満ち、失敗を恐れることがなかった。それゆえに、吉村は、その作品によってときに人々を驚愕させ、戸惑わせた。木村伊兵衛写真賞などの大きな写真賞には無縁であったが、写真表現の前線で共に戦う同時代の写真家達にとっては、いわば恐るべき不気味な存在であり、一部の評論家には高く評価された。吉村の実験は、「夢日記」でピリオドが打たれる。ただし、それはそこで完成を見たのではなく、未完のまま終わった。最後の作品発表は、2010年、アップフィールドギャラリーでの企画展「ながめるまなざす DIVISION1」であった。このグループ展への参加を最後に、同年、久しく写真活動の拠点とした東京を後にして、福岡県北九州市門司の実家に戻った。写真家にとって眼は命であるが、90年代に入ってしばしば眼の不調を訴えていた吉村は、手術を受けたもののその結果が捗々しくないことも重なり、帰郷を決断したと思われる。
ベルリンの壁崩壊とともに「大きな物語」の時代は終焉を迎えた。それ以降、グルーバル化が急進した世界のなかで、その後に続く「大きな物語」は生まれず、「物語」は細分化されあるいは似たような物語が単純にリピートされるばかりのようである。吉村が写真の方向転換を行って、新たな実験を試みていった90年代から2000年代初頭の精神世界には、崩壊した物語の砂漠が延々と広がっていた。インターネットの波は砂漠化をさらに促進していった。転換後の吉村の写真は、物語の死に直面し、歴史的意識が萎縮していく時代の急流に抗して、写真でもって新たな物語のあり方を探り、それを紡ぎ出そうという、途方もない夢想的な挑戦だったのかもしれない。歴史とは何なのか?自分を形成してきたさまざまな歴史とは何なのか?吉村は、自らに問いかけ、次のように記している。
「大半の歴史は存在しない歴史の大半は産まれる以前の出来事が無明のなかにあるから死後が無明の闇であることそれは変わりない 歴史=教育が存在せぬならそれが実体のないものであるなら教育=儀式も存在せぬ われわれをとりまくこの世界は実体がないこの世界を身体を通して存在せしめているこの得たいのしれぬものは
〈本能〉とは精神的なものと身体的なものの境界概念であって、《肉体内部に由来して、精神の中に到達する刺激の心的表象である》S・フロイト」 2005年4月21日 吉村朗のメール 件名「追加のテキストです」より[「夜驚 ORDER」の展示でのやりとりから]
吉村は、2012年6月2日、誕生日の前日、この世界に静かに別れを告げた。
(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)
[追記]
本写真集は、吉村の死後、作家が遺した作品・資料を元にして、後期の代表的な作品から「分水嶺」、「闇の呼ぶ声」、「新物語」「ジェノグラム」を再構成し、さらに吉村自身が生前に纏めていた「Recent Works」(内容的には「u-se-mo-no」に対応する)と日本の侵略戦争の痕跡を追跡したシリーズの中から自身が選定した「1994-2001」を収めたものである。
深川雅文 7月14日 2014年
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作家バイオグラフィー
吉村 朗(よしむら・あきら)
写真家。1959年6月3日、福岡県門司市(現・北九州市門司区)に生まれる。本名は吉村晃(1991年頃、朗に改名[通称])。1978年3月、福岡県立門司高等学校卒業。同年4月、日本大学芸術学部写真学科入学。1982年3月、同卒業。同年4月、東京綜合写真専門学校研究科入学。1984年3月、同卒業。1980年代半ばより、都市のスナップ写真家として脚光を浴び、その後、歴史的事象を追った諸作品を発表して注目を集める。主な写真展に、「分水嶺」(銀座ニコンサロン、1995年)、「新物語」(「現代写真の母型1999 IV 鈴木理策/吉村朗」川崎市市民ミュージアム、2000年)、「u-se-mo-no」(イカズチ、2004年)、写真集に、『SPIN』(Mole、1999年)がある。2012年6月2日、逝去。
【Art&Articleへの再録について】
本テクストは、2014年、2012年に他界した写真家、吉村朗(1959~2012)の写真集『Akira Yoshimura Works: 吉村朗写真集』(大隅書店 2014年9月30日出版)に解説文として収録されたものである。本写真集発行者の大隅直人さん(さいはて社)の許諾をいただき、吉村朗という重要でありながら歴史の中に埋もれてきた写真家の存在を確かめていただくために、あらためてここで全体を再録しておきたい。また、写真集の本文中にある註記並びに参考図版については、このWeb版では再録できないので、関心のある方は原本でご覧いただければ幸いである。
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