2020年4月号 第69巻 第1号
発行:大修館書店
執筆 深川雅文
「バウハウスの誕生 ー 1919年 ヴァイマール」
2019年はバウハウス創設100周年にあたる記念の年で、本国ドイツを中心に世界各地で祝われ、その意義と影響を紹介する展覧会や様々なイベントが開催された。あらためて、バウハウスの活動と理念、存在意義について見てみよう。
バウハウスとは何なのか?ある時代のデザインのスタイルなのだろうか?建築のスタイルなのか?「バウハウス」の「バウ」は「建築」を意味し、「ハウス」は「家」や「館」を意味する。直訳すると「建築の館」となるが、その意味はまだベールに包まれている。
多くの人々は、バウハウスという言葉でそこから生まれたモダンな家具や調度品、そして装飾性を取り払ったシンプルで機能的な建築を思い浮かべるかもしれない。それは確かに、バウハウスに由来する重要な作品である。ただし、それらを指差して「これがバウハウスだ」と言ってもその本質は見えてこない。
この問いに対する、最もストレートな答えは「バウハウスは、学校である」ということである。
第一次世界大戦終戦直後の1919年4月に、新生ドイツ、ヴァイマール共和国の設立宣言が行われた古都に建築家ヴァルター・グロピウスが設立した造形学校、それがバウハウスである。第一次世界大戦前、ザクセン王国のヴァイマールにあったザクセン大公立美術大学と同工芸学校を併
合した形で誕生した。校舎としては、同工芸学校の校長でもあったベルギー人建築家、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ設計による両校の建物を引き継いだ。(図1)
バウハウスは、それまでの芸術学校とは一線を画する革新的な学校だった。伝統的芸術学校では、社会から切り離され閉ざされた芸術独自の世界での優れた芸術家の育成が目指されてきた。グロピウスはこうした閉ざされたアカデミー教育を否定し、大戦後さらに顕著になった科学技術の進展とともに大きく変容する社会に向かい合いながら造形活動を行う新たなタイプの芸術家(建築家とデザイナーらに代表される)の育成を目指し、彼らの活動により社会を変えていこうという高い理想を掲げたのである。
グロピウスによる設立宣言文は次の言葉で始まる。「すべての造形活動の最終目標は建築である」これは、伝統的に分断されてきた造形芸術の様々なジャンルを、建築の下に総合することを目指すというバウハウスの基本理念の表明だった。(図2)
その教育の理想を実現するためには、感性豊かで先取的な教師たちが不可欠である。そこで、グロピウスは、当時の芸術の世界の先端で活動し国際的にも注目されていた気鋭の芸術家たちを教師として招いた。絵画芸術の革新を推し進めたヴァシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、画家で教育理論家のヨハネス・イッテン、構成主義の先鋭的な作家、ラースロー・モホイ=ナジ、舞台芸術の革新者、オスカー・シュレンマー…。彼らは、自らの芸術の実践と理論をバウハウスでの教育活動に惜しみなく注ぎこんだ。さらに、彼らの教育を受けた学生の中から、ヨゼフ・アルバースやヨースト・シュミット、マルセル・ブロイヤーのような優れた人材が頭角を現し、今度は教える側に立ってバウハウスの教育をさらに発展させた。優れた教師たちが注いだ造形教育へのエネルギーと、それにより創造性を触発された学生たちのエネルギーとが相互に作用し合って、バウハウスは新たな時代に相応しい芸術家たちを産み出す拠点となった。
理想の推進力となったのは、バウハウスが具体化した造形教育のシステムとその革新的な教育内容である。1922年のカリキュラム図にその革新性が明確に表現されている。(図3)バウハウスの教育体系は、基礎教育、工房教育そして建築教育の三段階で構想されていた。入学した学生たちは、外側の円から中心に向かって学びを進めていくことがこの図で示されている。円形の図表の中心には「建築」(バウ)が置かれ、バウハウスの教育の最終目標地点として示されている。学生たちは、まず「予備教育」とも呼ばれた基礎教育から始める。初期のバウハウスでは半年間の基礎教育が設けられていた。ここでは、絵画や彫刻など分野ごとの基礎が教えられるのではなく、先入観や既成概念を払拭して想像力を解放し、特定分野に偏らない造形の基礎に関する包括的な教育が行われた。造形の基礎を身につけた後、次の段階で、自分の希望する分野となる工房に入って専門的な工房教育を受けることができる。バウハウスには、家具工房、金属工房、壁画工房、織物工房、彫刻工房、版画工房、舞台工房など多様な工房があった。基礎教育ではそのための「予備」段階として、様々な素材、対象の性質や構造を把握するための感覚を鍛錬する授業や、色彩と形態への意識を研ぎすまし造形感覚を養うための授業が行われた。バウハウスの教育の要となる予備課程の基礎を築いたのはスイス生まれのヨハネス・イッテンである。(図4)
1923年の夏、ヴァイマールで大規模な「バウハウス展」が開催された。(図5)これは設立4年目となる教育活動の成果を初めて大々的に披露し内外にアピールすることを目的としていた。予備課程ならびに各工房の成果や学生と教師の芸術的な活動が学内外で展示されるとともに、学校から遠くないアム・ホルンという場所に実験住宅が建設されて公開された。(図6)バウハウスが手がけたこの建築は、標準的な家族のための住居の提案である。それは、機能的な空間設計と建築の工業化を目指すモダニズム建築の方向性を明示するとともに、建設に学校の各工房が協力して参加しており、創設時に掲げられた各造形分野を「建築」へと「総合」するという理念の具体的な形を示していた。この展覧会は、ドイツのみでなく国際的な反響を引き起こし、バウハウスの存在を世界中に知らしめることになった。
1923年の「バウハウス展」は成功を収めたが、保守的な反対勢力にはその革新性の理解を得ることはできなかった。1924年、ヴァイマール市議会が右傾化する中、バウハウス批判は鎮静化されず、予算措置が厳しくなり学校継続に関する危機的な事態にバウハウスは直面した。グロピウスとバウハウスのマイスターたちは、学校存続を図るために自主的にヴァイマールの学校を閉じることにした。そして、新たな活動拠点を探し始める。
いくつかの都市から受け入れの手が挙がる中、工業都市としての発展著しいデッサウ市が移転の地に決まった。次の新天地でバウハウスはさらなる発展を見せることになるのである。
図1
ヴァイマールのバウハウス校舎(旧ザクセン大公立美術大学校舎)、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデにより改築(1904年)photo:Eiji Una
図2
バウハウス宣言 挿画:リオネル・ファイニンガー《大聖堂》1919年、ミサワホーム株式会社蔵
図3
バウハウスのカリキュラム図(利光功『バウハウス 歴史と理念<記念版>』株式会社マイブックサービス、p,104)
図4
フランツ・ジィンガー《男性の裸身》1919年(イッテンの授業より)、ミサワホーム株式会社蔵
図5
ヨースト・シュミット《1923年の「バウハウス展」のポスター》1923年、ミサワホーム株式会社蔵
図6
バウハウス叢書(3)アドルフ・マイヤー編(貞包 博幸訳)『バウハウスの実験住宅』(1925年[初版]/2019年[邦訳新装版]、中央公論美術出版社)
※図版については、掲載紙をご覧ください。
(ふかがわ まさふみ キュレーター / クリティック)
「英語教育」
2020年4月号 第69巻 第1号 https://www.taishukan.co.jp/book/b506725.html
発行:大修館書店
発行日:2020年3月14日
バウハウス開校100年 モダンデザインの源流 バウハウスとはなにか
[新連載・1]
「バウハウスの誕生————1919年 ヴァイマール」
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[新連載・2]はこちら
「バウハウスの展開 ー ヴァイマールからデッサウへ」
[新連載・3]はこちら
「バウハウスの終焉 デッサウからベルリンへ」
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