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essay: デザイン、私たちの生のかたちとして ープロダクトデザインのミュゼオロジー

2007年10月27日


執筆  深川雅文


展覧会「みんなのデザイン ーグッドデザインと私たちの生活ー」図録 pp64-66より


 素朴な問いを立ててみよう。  プロダクトを美術館で展示することには、どのような意味があるのだろうか? 同じ製品が置いてあるのに、たとえば、それが、企業のショールームで展示されるのと、美術館で展示されるのは何がどう違うのだろうか? 


プロダクトと展示

 プロダクトの展示に関しては、二種類の形が考えられる。ひとつは、それを生み出す企業の生産現場とストレートに連続した場所での展示である。この場合、プロダクトはそれを生み出した企業や産業本来の目的、つまり、プロダクトを市場で販売する目的に添った展示である。たとえば、店舗、ショールームや産業・ビジネスショーの展示会などである。販売を第一義としない点では異なるが、プロダクトデザインの教育に関わる学校等での展示は生産に連なる教育現場と直結しており、その活動の成果を発表するという目的に添った展示である。生産/販売プロセスの文脈に連続した関係をもつ展示を仮に「即自的」展示と呼んでおこう。  さて、こうした展示と対照的な展示はどのようなものだろうか。生産現場や販売目的の連続性をいったん括弧に入れて、あるコンセプトの下にプロダクトを展示するという場合がある。美術館での展示はそのひとつである。これは販売といった経済的目的を主眼とするのではなく、より一般的な文化的関心の下でプロダクトのもつ価値を開き示そうとする展示である。言い換えれば、生活/文化からの視点を優先することで、生産・販売の現場から距離を置き、プロダクトの価値をあらためて捉え直して提示する展示である。そのために、生産やデザインに直接携わっていないが、デザインに造詣の深い人々がなんらかのビジョンを描き、それを介して展示すべき製品が選び出される。その結果(うまく行けば)、即自的な展示ではいわば隠されている生活/ 文化的次元や社会的次元での価値が見えてくる。たとえば、ある地域やデザイナーに目を向け、生活文化や創造性に根ざしたデザインとしてプロダクトを選んだ展覧会などはその一例である…「北欧デザイン」展、「イームズ」展、「ユニバーサルデザイン」展…。   1950年に、ニューヨーク近代美術館(以下、MoMAと記す)がシカゴのマーチャンダイズマートと協力して開始した「グッドデザイン」展はこうした展覧会の原点のひとつであった。プロダクトを、その即自的な産業の文脈からいったん切り離し、一般の人々の善き生活のためにという視点から別の文脈に置くことで、プロダクトの新たな価値と美学を生み出すことになった。こうした展示を、ひとまず「即自的」に対して「対自的」と呼ぶことにしよう。「対自的」な展示というのは、あるビジョンやコンセプトを、プロダクトに「対して」置いて、そこからプロダクト自身の潜在的な価値をスクリーンに投影するような展示のかたちであるからである。


プロダクトと美術


 美術館にプロダクトが入ってきたのは20世紀に特徴的な現象であった。その過程は、20世紀美術の革新とも深いところで関わっていた。  20世紀初頭、芸術の世界には美術の伝統を根底から覆すような激震が走った…ピカソのキュビズム、カンディンスキーらの抽象、チューリッヒで生まれたダダ…。旧弊に囚われた芸術世界に反旗を翻したこうした前衛芸術の革新運動の中から、構成主義など機械芸術を追求するグループが現れ、また、工業生産物であるプロダクトに美学的な作用を発見して伝統的美学を批判する芸術家たちも出てきた。  その筆頭は、イタリアに生まれた未来派である。1909年、詩人マリネッティは、スピードの表現に新たな美の本質があるとして、レーシングカーを引き合いに出し、西欧の伝統的な美の規範を体現しているギリシア彫刻「サモトラケのニケ」よりも、「爆音をたてて走り去るレーシングカーのほうが美しい」と述べ「スピードの美」の優越を説き、未来はの設立を宣言した。機械美学の誕生である。20世紀初頭、さまざまな科学技術と産業の進展とともに、欧米は本格的なマシーンエイジを迎える。とりわけ、フォードの自動車生産方式に見られる画期的なオートメーション生産体制をいち早く確立したアメリカはマシーンエイジの先端を走る国となった。  そのアメリカで、プロダクトの反・美学的な作用を用いた問題作が現れる。1917年、第一次世界大戦の戦乱を逃れて帯米中のフランス人芸術家、マルセル・デュシャンは、ニューヨークでのある展覧会に『泉』という作品を出品した。プロダクトである男性用便器を横に寝かせただけの作品で、その便器には絵画作品に倣って「マット」という架空の芸術家のサインが記されていた。これは、展覧会を愚弄し挑発するものとして即刻撤去されスキャンダルとなる。展示された「便器」は芸術家の天才による創造とはかけ離れた「既製品」(レディ=メイド)であり、美術の創造性を否定し、美術展のなりたちを根底から揶揄する危険な作品だと見なされたのである。プロダクトを本来の使用場所から切り離して「美術展」という体制的な場に置くことによって、芸術の成り立ちを問いかけ、暴くことー20世紀美術の冒頭において、プロダクトがテーマとなりいわば触媒的役割を果たし、芸術の革新に寄与したことは記憶にとどめられていいだろう。  プロダクトは、20世紀美術の進展のなかで、触媒的な作用にとどまらず、より直裁なしかたで機械文明を礼賛する美意識を覚醒させ増大させた。未来派はその嚆矢であった。機械化が進行する社会において機械は次第に時代の象徴としてのポジティブなイメージを獲得し始める。ドイツやアメリカの写真家と画家は、機械の細部や機械のある風景を、即物的で緻密なリアリズム表現で捉えた作品を多数発表した…チャールズ・シーラー(米)やアルベルト・レンガー=パッチュ(独)など。芸術家のまなざしが機械の美をつまびらかにし、同時代の人々も機械の美学を共有する状況が進展していった。そして、機械によって生み出された身近な工業生産品、プロダクトにも美を発見する感性が醸成されていった。


グッドデザイン展


 1934年にMoMAで開催された「機械芸術」展は、機械の美学をテーマにした画期的な展覧会であった。展示されたものは、機械を構成するバネやベアリングの構造物、船のスクリューやプロペラなどのプロダクトであった。こうした機械生産物を、その本来の利用の現場から切り離して、美術館という場でそれぞれのもつ形態と機能の美を際立たせるような展示造作を施して展示することで新たな生命が吹き込まれた。本展では、プロダクトは「即自的」な自らのあり方を脱却し、機械美学という新たな輝きと価値を獲得した。この新たな価値の発見を可能にしたのは、展覧会を貫くビジョンでありキュレーションであった。  MoMAが始めた「グッドデザイン」展は「機械芸術」展に系譜的に連なる歴史的に重要な展覧会であった。「グッドデザイン」展では、自由の国アメリカの民主主義と産業の高度な発展を背景にして、企業の利潤追求のための「様式化」とは別の基準、「よき生活」のための「グッドデザイン」という理念が立てられた。企業がプロダクトを売るために宣伝広告を駆使して刻印する即自的なメッセージに対し、「われわれの生活様式、われわれの能力、われわれの理想」という民主的な主体である「われわれ」の視点を打ち出し、20世紀前半のモダンデザインが切り開いた機械美学を踏まえながらプロダクトを選び出して展示した。「グッドデザイン」という思想の原点である。  この企画は、その独自の民主的理念のゆえに、産業界から反発を受け5年で終止符を打たれる。機能の向上がなくともスタイルを変えることで売上が増加すればいいのだという行き過ぎた産業中心主義にとっては、産業の論理に縛られることなく展開される「グッドデザイン」運動は利益追求を阻害する危険な存在に映ったのである。


デザインとは何か?

  MoMAの「グッドデザイン」展の中心人物、エドガー・カウフマン・ジュニアの著書『近代デザインとは何か?』は「グッドデザイン」運動のマニフェストである。本書は、グッドデザイン運動の理念を明らかにする役割を担っており、彼が企画した展覧会と表裏一体の関係にある。半世紀を経て、彼の言葉を振り返ると、けして古びることなくあらためてそのビジョンの革新性に気づかされる。  彼は、生活者「われわれ」の視点を貫くことで、プロダクトデザインを単なる産業の成果物にとどまらず、ひとつの「表現」として捉える画期的なビジョンを切り開いた。


「われわれが選択するものを通じて、デザインはわれわれ自身の表現になる」※


 ここで彼が考えている「表現」の内容は、いわゆる美学的な内容にとどまるのではない。それはより広範に及ぶ「人間」総体の「表現」であった。


「デザインはこの意味で、他の多くの人間活動、わけても技術や美術に関係がある。政治・経済・哲学・科学はデザインとその見方に影響を及ぼす。換言すればデザインとは人間が行うすべてのことと相関連している人間の核心的活動なのである。そこから、その時代の正確や、デザインを創りだす人間の性格を要約するという、デザインの特異な能力が生まれる」


 カウフマンが構想したプロダクトデザインの展示とは、そのデザインに関わるさまざまな人間的側面、時代の性格をあらわにする作業であったと言える。プロダクトデザインは、そこにおいて時代や人間のあり方を問いかけることが可能な優れて文化的な存在であるという確信がカウフマンにはあった。デザインには人々の生活のかたちが表現される。グッドデザインとは何か? カウフマンはこう考えた。ひとびとの生活を導く理想が「表現」されているプロダクトこそが、真の意味での「グッドデザイン」なのである、と。


 さて、デザインが「表現的」であるのならば、美術館はまさにデザインを提示するのに最適な場となりうる。デザイン・ミュージアムとは、たんなるプロダクトの集積場所のことではなく、その展示を通して私たちの生活のかたちを表現していく場として機能することが求められるのである。それが実現されるとき、ミュージアムは、「デザインをみんなのものにするための装置」として機能するはずである。「デザインとは表現的である」※


(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)


※ は、E.カウフマンJr.著

『近代デザインとは何か?』 ( 生田勉 訳 美術出版社 1953年 7貢 )より


展覧会

「みんなのデザイン ーグッドデザインと私たちの生活ー」


会期 2007年10月27日(土)ー12月16日(日)

会場 川崎市市民ミュージアム

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