2000年10月1日 発行
「現代の眼」524号 東京国立近代美術館ニュース 2000年10-11月号 pp.10-11
執筆 深川雅文
本論は、東京国立近代美術館で開催された「トーマス・シュトゥルート:マイ・ポートレート」展(2000年10月3日-12月9日)に寄せて東京国立近代美術館ニュース524号(2000年10-11月号 pp.10-11)に執筆・掲載されたものである。(東京国立近代美術館『現代の眼』についてはこちら)
「間主観性の美学へ」ーシュトルートの地平ー 深川雅文
シュトゥルートは、一九九六年に川崎市市民ミュージアムで行った講演のなかで、画家を目指していた時期の絵画作品を何点かスライドで紹介した。モティーフは都市における人間であった。心象風景的なその画風は、一見したところ、彼の主要な写真作品、例えば、世界各地の都市の街路を中心遠近法により厳密に切り取って構成した作品などとは趣を異にしており、大いに驚かせた。また、彼は、戦後約十年しかたってない時期に生まれた自分の絵画制作は、まだ戦前の前衛芸術運動の影響下にあったと述べ、ジオルジオ・デ・キリコやシュルレアリスムなどの影響関係を挙げた。ここには、シュトゥルートの作品を読み解く上で、重要な鍵が隠されているのではないか。というのは、戦前のモダニズム芸術運動との連続性と超克という歴史的文脈がそこに示されているように思われるからである。
視覚的無意識への問い
シュトゥルートを写真作家として一躍世界的に知らしめた一九八七年の展覧会「無意識の場所」は、都市の街路のシリーズである。その題名は、シュルレアリスムを巡る問題の場を連想させる。
なかでも重要なのは、マン・レイも高く評価したウジェーヌ・アジェを巡る歴史的な文脈との関わりである。アジェが撮ったパリの街路の記録写真に、意識的な視覚からはこぼれ落ちているような不可思議な浮遊的イメージを見いだしたシュルレアリストたちは、いわば自動記述的な写真のあり方を認め狂喜した。ベンヤミンも、写真における「無意識」という問題を論じる中で、アジェを視覚的無意識の場を切り開いた革命的な作家として明確に位置づけるとともに、アジェの写真を、現実を暴露する「構成的写真」の典型として、モホイ=ナジに代表される造形性の強い「創作的写真」に対置した。ところで、ベンヤミンが述べた「創作的写真」の傾向は、戦後ドイツでは「主観的写真」の運動として復活するが、同時代的に活動を始めたベッヒャー夫妻は、これに対して批判的な立場を貫いている。彼らを師とするシュトゥルートの「ベッヒャーの下で画像を現実から構成することを学んだ」という言葉は、アジェを巡る議論の文脈のなかで彼が取るスタンスを示しているのである。
七十年代前半、シュトゥルートは、絵画から写真へとシフトする中で、街路における人々の像を撮り続けていた。七十年代半ばになると、その街路の写真から人々が姿を消し始め、器としての都市空間だけが作品に残されることになった。この展開は、ベンヤミンの次の一節を彷彿とさせはしないだろうか。「人間が写真から姿を消したとき、そのときはじめて展示的価値が礼拝的価値を凌駕した、アジェの写真その写真に対しては瞑想などは適していない。それは眺める者を不安にする」(「複製技術芸術時代の芸術」より、一九三六)
冒頭に述べた「驚き」に立ち返ると、絵画から写真へという転換は一見、大きいものであるにも関わらず、シュトゥルートの作家活動において、無意識への問いは一貫して保持されてきたと言えよう。
作家の主観性への問い
西欧近代の総体を問い直そうという野心に満ちたシュルレアリスム運動の矛先は、芸術家自体のありかたにまで及んでいた。例えば、運動の首謀者ブルトンはフィリップ・スーポーと、『磁場』(一九一九発表、一九二〇刊行)を共作。この作品では、二人の言葉が分かち難く混ざり合うことで、個々の作家の主体は互いに溶解しあっており、特権的な主体の自己表現としての創作という芸術家神話をうち砕く問題作であった。作家の主観性の解体、あるいは作家の匿名化のプロセスは、この運動のなかで貫徹されたわけではないが、その問いかけの意味は大きい。
シュトゥルートが師事したベッヒャー夫妻の作品にシュルレアリスムとの直接の関係を見ることは無謀だが、作家の匿名性という問題において交点を見いだすことができょう。主観性を超克する方法を見いだしたことは彼らの芸術にとって特筆すべき点である。ヒラ・ベッヒャーはこう言った。「あなたの対象に誠実でいなければなりません、そしてあなたがそれをあなたの主観性によって破壊しないこと、と同時にその対象といかに関わるかを確かめなさい...」
ベッヒャー夫妻の記念すべき最初の作品集『匿名的彫刻―工業的建造物のタイポロジー―』(一九七一)は作家の匿名化という点で象徴的である。被写体は、採掘塔、給水塔、溶鉱炉などいわば匿名的な産業建造物であり、これらに対して、一見したところ何気ない誰にでも撮れそうな匿名的視点が向けられている。ただし、それは、写真で採集されたこれらの建造物を、場所と時間を超えて互いに類型として比較することを可能とするために「視点と視角」を一定に保つように論理的に厳密に計算された視点であった。この手続きによって、遠近法的ビジョンの基底に絶対的なものとして措定されてきた写真家=作家の存在、主観自体が相対化される。というのは、撮影のプロセスは標準化され、法則化されるからである。撮影の自由は抑制され、主観的で恣意的な視覚に陥ることも規制される。作家はその法則の立案者でありかつその法則の適用の従事者という存在になり、主観客観の視覚システムの外に出る。さらに、実際、ベッヒャー夫妻の作品は二人の共同作業の結果であり、いずれかの視点の優越性を論じることは無意味である。主観と客観の関係が、現象学的還元のプロセスと同様にいったん括弧に入れられ、カメラを介して、それらの「間」にたつ人間としてその関係そのものを調整するひととして作家は登場す。る。かくして表現上の「主観―客観」の一対立構造は、方法論的に止揚され、視覚表現に質的な転換がもたらされることになった。表現の内容に関して見れば、被写体をしっかりと取り押さえながらも、被写体の存在の次元を越えて被写体と作家の関係性ならびに被写体間の関係性そのものを主題化するというメタレベルでの表出の次元を切り開くことを可能にする。「タイポロジー」は、その豊かな成果にほかならない。
シュトゥルートが方法論的に確立した、やや高めの視点から街路に向かって厳密な中心遠近法を適用するという手法は、ベッヒャー夫妻が基礎づけた方法のさらなる展開であった。「無意識の場所」では、シュトゥルートは、さまざまな場所の街路を、作家が保持する視覚のシステムによって採集していった。それは観点を変えれば、街路をある定まった関係性のシステムに落としこんで分析するとともに、差異の体系として総合し、相互的な関係性の宇宙として提示する作業なのである。
(図版あり) トーマス・シュトゥルート<デュッセル通り、デュッセルドルフ>1979年山口県立美術館蔵
関係性の表出
七十年代、絵画から写真へという作家の変遷のなかで、いったん消え去った人物が、八十年代前半になって再び、彼の作品の中に戻ってくる。まず、彼は一人の肖像写真から始め、さらに家族の肖像へと向かう。そして、次に、美術館・博物館の空間とそこに存在する人々を撮った作品へと向かった。このことは、何を意味するのだろうか。
同じベッヒャー門下であり、肖像作品で知られる作家トーマス・ルフの巨大な証明写真のような作品と比べると、シュトゥルートの作品の特質はより明確になる。ルフが瞬間的に相貌を撮影しているのに対し、シュトゥルートは、意図的に、瞬間ではなく一定の時間をかけて露光している。この時間の持続によって、モデルとなった人々は、見られる自分と自分自身の間に関係を生じさせるとともに撮る写真家のカメラとも関係を生じさせる。できあがった写真を見る人は、そうして撮られた人によって見つめられる自分との関係を生じさせることになる。さらに、複数のポートレートの場合、撮られる人々の「間」に成立している関係自体とそれを見る人との関係がさらに入り込んでくる。作家は、都市街路において確立した「関係性の美学」を人物像においてさらに展開させているのだ。
美術館・博物館シリーズで、この美学はさらなる飛躍を見せる。美術館という空間と人間の関係、作品と見る人間の関係、さらに、作品を見る人を見ている写真家の視点で見ている自分自身...という具合に、関係の次元がより重層的になるとともに、作品を「見る人」も入れ子的に巻き込むような、メタレベルの関係の表出にまで至った。
「人間」を「じんかん」と読み、「人」と「人」の「間」に人を人たらしめる基盤があると論じたのは哲学者、和辻哲郎であった。現象学的に言えば、「間主観性」が人間の認識や世界の基盤にあるということである。とすれば、人と場所、そして人と人といった関係性を映像的に主題化してきたという点において、シュトゥルートの作品については「間主観性の美学」という言葉が語られうるのではないだろうかと私は考える。シュトゥルート作品に表出される関係性は、普段私たちの日常的意識のなかでは見えてこない「無意識の場所」であり、また主観客観の構図を越えたところに「地」として開けてくる相互了解の地平なのだから。
(川崎市市民ミュージアム・学芸員)※当時の表記をそのまま記載しています。
【展覧会情報】
展覧会名: 「トーマス・シュトゥルート:マイ・ポートレート」展
会期: 2000年10月3日-12月9日
会場: 東京国立近代美術館
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