1992年3月1日
執筆 深川雅文
レニ芸術の問題の本質
舞踏家、女優、映画監督、そして写真家として類稀な才能を開花させたレニ・リーフェンシュタール。逆巻く時代の荒波をくぐりぬけ、まもなく90歳(1991年当時 2004年没 満102歳)になろうとする彼女は、現在も、創作への意欲に満たされ、表現の現場に立ち続けている。
彼女の波乱万丈の人生は、卓越した芸術家のみに授けられる輝かしい栄光に彩られる一方で,その天才を一時であれ忌まわしきナチズムに委ねたかどで厳しい疑念の目に晒されるという運命を背負ってきた。大戦後、彼女は、数々の非難や中傷そして批判から自らを救い出すことにかなりの時を費さねばならなかった。5年の歳月をかけて綴り上げられた上下2巻からなる本書の根底には、自らに向けられた疑惑に対し、身のあかしを立てたいという動機が強いトーンを響かせている。
彼女を悩ませ続けることになったナチズムとの関係は、つねに議論の的であった。この問いには、ひとつには個人の信条の問題、もうひとつには彼女の芸術の質に関わる問題というふたつの側面がある。
前者に関しては、当時、彼女がヒトラーとナチズムに共感を抱いていたことは事実である。しかし、その傾倒ぶりが、ナチの第三帝国を支持した大多数のきわめて平均的なドイツ人の域を甚しく超えるものではなかったことは、戦後、彼女が勝ち抜いてきた数々の訴訟が明らかにしているとおりである。
ヒトラーの依頼でレニはナチ党大会の記録映画『信念の勝利』と『意志の勝利』を制作しているが、これらの仕事を引き受けたのは,個人的な崇拝からではなく、強大な権力者ヒトラーへの若干の恐れと、それにもまして,才能を存分にふるうことのできる大舞台をさし出された芸術家が抱く燃えるような野心からであったと思われる。
レニの芸術の本質については、例えば、スーザン·ソンタグが、レニの復帰作と言っていい写真集『ヌバ』 (1973)に見られる、部族の儀式の中の戦士たちの映像をとらえて、肉体の力と戦いの意志を美化するものであり、ファシズムの美学に通ずると論難している。この批判の是否はともかくとして、レニ芸術の本質にアプローチするためには、改めて、いま一度、数々の予見から離れて、その作品の全貌を多角的に見つめることから始めなければならないだろう。これまでそうした機会はあまりにも少なかった。
本書の出版とほぼ同時期、昨年(1991年)末から渋谷の東急文化村で、彼女の全体像を把えようとする展覧会『映像の肉体と意志 レニ リーフェンシュタール』(会期: 1991年12月15日~1992年1月26日)が開催されたが、本展は、作品図録ともども、この自伝と合わせレニの全体像に迫るまたとない機会となった。
この展覧会で本邦初お目見えとなった最新の写真作品『水中の驚異』は、とりわけ興味深かった。というのは、水中の小生物の形態を見事なまでに美的表象へと転化させている本作品は、レニの映像美が、ナチ美学とは文化史的に異なる来歴を根底にもつことを明らかに告げ知らせていたからである。
冷徹で精緻なレンズの眼を研ぎ澄まして眼前の対象に迫ることを通して、その中に隠された驚くべき新鮮な美の形態を明るみに出し、普遍的な美の表象へと高めること…本作品に如実に見られるこれらの傾向は、狂乱の1920年代、モダニズムの実験が繰り広げられたワイマール時代に生まれた美学,新即物主義に直接連らなるものであった。レニ芸術の独自性は、ワイマール文化の中で育まれた映像の文法と修辞を土台にして、高潮した意志に満たされた人間の身体とそのふるまいへの透徹したまなざしにより、稀に見る美質をたたえた表象世界を創造したことにある。
だが、そこにレニ芸術への疑念の種があった。ナチの芸術作品には、身体表現を通してゲルマン民族の血的・種的優越性を讚美するものが数多く見られるように、ナチ芸術にとって、身体は「血と土」のシンボルとして特別な意味をおびて登場してきたのである。映像によるレニの身体礼讃は、たとえそれが普遍的な美の追求であったとしても、あの政治状況の中ではナチ文化の磁場に共鳴するものと理解される危険性を大いに孕んでいたのだ。
レニ芸術の問題の本質は、おそらく次のような問いの中に隠されている。その芸術が、ワイマール的なもの(モダニズム)を吸収しながらも、反ワイマール的なもの(ナチズム)の中に入りこみ:その中でひとつの華麗な大輪の花を咲かせたのはなぜなのだろうか?
レニの作品をファシズムの美学と弾劾するのではなく、今世紀のより広い文化的文脈の中で見直すことが、21世紀を目前にした今、求められ、私たちはようやくそうした地点に立つに至ったということであろう。本書は、そのようなレニ理解の深まりのなかで、希代の女性芸術家の生きざまへの尽きせぬ興味を満たす秀れた読み物であるととらに、レニ問題への重要な鍵を秘めた書として精彩を放つことであろう。
(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)

●書評 『回想』 レニ・リーフェンシュタール著 樺島則子訳 文藝春秋 1991年 Memoiren by Leni Riefenstahl (1987) 掲載: Esquire (Japanese Version) April 1992 エスクァイアマガジンジャパン p.223
本テクスト「レニ芸術の問題の本質」は、レニ・リーフェンシュタールの自伝『回想』の日本語訳の出版に合わせて、月刊誌『エスクァイア』〔エスクァイアマガジンジャパン社 1992年4月号(223ページ〕の書評欄のために執筆したものである。レニ・リーフェンシュタールの著作と展覧会に出会えたのは、リーフェンシュタールをモダニズムとナチズムの関係を考察する上で重要な作家と考えていた筆者にとってまたとない好機であった。オープニングには、レニ・リーフェンシュタールが来日し、パーティーの中で自伝の書評の執筆者として、本人と言葉を交わすこともできた。グローバリズムと反グローバリズムの衝突が明確となりつつある現在、社会における芸術のあり方を考える上で、リーフェンシュタールの仕事を振り返ることは示唆的であると思われる。
This review was written by Masafumi Fukagawa for the monthly magazine “Esquire Japan” (Esquire Magazine Japan, April issue, 1992), about the Leni Riefenstahl's autobiography “ Memories”(Japanese translation), published in conjunction with her exhibition “LENI RIEFENSTAHL LIFE”(Tokyu Bunkamura, Tokyo, December 15, 1991 through January 26, 1992 ) .
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